Chapter 25.9-オヴァールの憂鬱-

くそ・・・ 誰もいないのをいいことに、口汚く罵る。デスクの前にうつ伏して、苦しそうに唸る。腹の具合が明らかに悪い。さっきから、絶え間なく腸がぐるぐると音を立てている。


あああ・・・ うめき声を漏らしながら、オヴァールは顔を上げた。デスクの上に見えるのは、並んだ写真たて・・・最初の妻との間にもうけた、もうすうぐ成人を迎えるひとり娘の写真がその中央にあり、すがるように手に取った。


そういえば、昨日、着信が入っていたんだ。視察の間は忙しいから、かけてくるなと言ったのに。


娘は、だいたい月に一度、電話を駆けてくる。オヴァールに媚を売るように、可愛い声を出しながら、お小遣いをねだる。そのあからさまな猫なで声に、すっかり狡猾な女に育ってしまったと頭ではわかっても、つい頬が緩む。今、唯一、身内と認識してくれるこの子だけだろう・・・そんな娘も、金の切れ目が縁の切れ目なのかもしれない。自分が市長から転落したら・・・あるいは、事業がうまくいかなかったら、それっきり電話もよこさないかもしれない。そう思いながらも、電話があれば、いつでも浮ついた声で答えてしまう・・・


オヴァールは、なんだか虚しい気持ちに襲われて、写真たてを元の位置に戻した。


この娘の母親とは、離婚して以来、ほとんど口も利いていない。娘を通して、時折近況を知るくらいだ。再婚はしていないようだが、オヴァールを毛嫌いして、できるだけ接触したくないという強い意志を感じる。今思えば、聡い女だった。オヴァールという男の性質をよく理解していた。そして、13年という結婚生活を、経営者の妻として卒なくこなしていた。夫婦の間に、早々に情熱が失われていたとしても、生活に何か不都合があるとは思わなかった。妻から切り出された離婚の話は、オヴァールには寝耳に水だったのだ。


2番目の妻との写真も、さがせば一枚くらい、飾ってあるはずだ・・・結婚期間が1年と短かったから、飾ってあるのも、結婚した当初、この市庁舎の前で撮影したものだろう。それは、市長選挙公示の前日だ。若くて美しい女だった。ルシスの実質的な実権者となるレスタルム市長の夫人となれば、きっと、華々しい生活を想像していたに違いない。実際には、市長就任後、ほとんど相手をする時間がなかった。時折、公務に同伴させたときは、華美に着飾って周囲の反発を受けた。オヴァール自身はそれを咎めたことはなかったのだが、当人は周囲の冷ややかな反応を悟ったのだろう・・・波が引くように、さっと離婚申請の書類に署名をして出て行った。しかし、朝、役所の会議に出る前に見つけたその書面を見て、心から安堵したのはオヴァールの方ではなかったか・・・


概ね、順調だったんだ。


オヴァールは自分に言い聞かせた。


失敗と言うほどのことは起こらなかった。2度の結婚だって・・・特別、大きな痛手はなかったはずだ。


事業は年々、2桁の成長を続ける。一番のピーク時は・・・はじめたての事業の例ではあるが、1年で事業規模が倍となったものもある。事業だけではない。自分の地位も・・・父から受け継いだ、お愛想の商工会の理事から、理事長、業界団体の代表・・・そして、市議会員と上り詰めて、今は、ルシス最大都市の首長までになった。なるほど・・・神凪のような熱狂的な支持者はいないかもしれないが、その支持率は、常に安定し、年々、じわじわと強固になっていく。


政治家も実業家も、アイドルである必要はない。多くの市民の目には、狸と映って構わない。その道にいる者たちに、一目置かれていればそれでいい・・・


この視察だって・・・ とオヴァールは思い出す。右も左もわからないような、ルシス王家の御曹司が、自分の手腕を頼ってきたのだ。そして、迎えるレスタルムの実力者達も、視察先へ組み込まれようと必死にオヴァールへコンタクトを取ってきた。いわば・・・オレは、この国の有力者を取り仕切るハブだ。このオレを通さねば、話ができない、と、言わしめたのだ。


昨日までは順調だったんだ・・・そうとも。王やその娘の奇行が、時折、周囲の冷笑を誘ったりはしたが、それでも、決められた行程をこなして、レスタルムの多くの有力者を、王に引き合わせた。自分はどこまでも節度を保った。呆れたり、バカにする代わりに、ホストとして彼をもてなし、そして時には、嗜めもした。・・・あの男はバカみたいに素直に、オヴァールの言葉に耳を傾けていた。


しかし、それは、単なる見せかけだったのかもしれない。無知に見せかけてこちらを安心させる腹だったのかもしれない。


オヴァールは、いつのまにか、親指の爪をかんでいた。考え事をしているときに、出る癖だ・・・ だいたいは、悪いことを考える時に。


う・・・ オヴァールは胃が痛くなるのを感じて、下腹を押さえる。昨夜から今朝にかけて起こったことを思い出そうとすると・・・そうなる。


ルシス王が暫定居留地に潜入したと聞かされたのは、深夜2時ごろではなかったか。カーテス警察署の署長から連絡が入ったと秘書が告げたのと、イグニス補佐官がいつになく凄みのある様子で、オヴァールの居室に押しかけてきたのとがほぼ同時だったろう。


イグニス補佐官は、口では謝罪を述べながら、どうにも取り付く島のないような強硬な姿勢で、淡々と、王の潜入について説明した。


地域の、実情を知るため・・・? オヴァールは呆気にとられて、イグニス補佐官の口上を聞いていた。殺人事件が週に数件は起きて、そのうちの8割は犯人の目星もつけられないまま放置されている地域だぞ・・・


グラディオラス隊長は、オヴァールの意見など聞く前に、王都の警護隊に召集をかけていた。本来なら、まずは、オヴァールに一声かけ、オヴァールを通してレスタルムの防衛隊幹部と協議を行うのが筋だろう・・・それが、ドヤ顔で一言、召集の事実を告げただけだ。詫びる様子も、悪びれる様子もない。王の盾だかしらないが・・・なんと、礼を欠いた態度だろう。オヴァールは怒りでどうにかなりそうだった。


呑気に危険地域に潜入したバカのために、何故オレが振舞わされないといけない?


緊急性が高い・・・と、彼らは、言う。緊急性だって? そりゃ・・・いつ、人が殺されてもおかしくないような地域へ足を踏み入れて、緊急性も何もないだろうが。悪態をつきたいのを、懸命に堪えていたのが、自分でも、なんとできた大人だろうかと思う。もはや、オヴァールが何かを覆そうにも、事態は動いてしまっている。オヴァールに出来たことといえば、全くの不本意だと声を荒げながら、しかし、その実、彼らの言いなりに警察署と防衛隊に連絡を入れたことだ。


後の対応は自分たちが・・・ とイグニス補佐官が、態度だけ慇懃に頭を下げたのを、かちん、と来て、


「レスタルム視察の責任者は私だ。私も同行する」


と思わず申し出てしまった。二人の王の側近は、大層驚いた顔をした。しかし、さすがにそこは異議を申すことはできなかった。ふん・・・ オレが怖気づいて、あの地域へは近づかないとでも思っているのだろう・・・ ふざけるな。お前らだけで、話をされては困るんだ・・・


ところが、市長の専用車でカーテス警察署まで来ると、いつの間にか並走していた王の側近達の車は見えなくなっていた。警察署長が血相を抱えて玄関まで出迎えていうには・・・王が姿を消したということだ。どうやら独りで、警察署を出たらしい。


なんだと?! 


オヴァールは言葉を失う。慌てた秘書が、王の側近達に連絡を取るも、誰も通信に応じない。青くなる警察署長を前に、オヴァールは放心した様子で首を振った。


「あいつらは・・・あいつらでなんとかするつもりなんだろ・・・放っておけ」


力なく言い放って、白み始めた空をぼんやりと見上げた。


そこから、あいつらを待つこと1時間・・・ 警察署の粗末な応接室でじっと待ったが、落ち着かずに何度もトレイに立った。あまり掃除の行き届いていないトイレの、洗面所のまえの曇った鏡で、自分の顔を見た。げっそりと頬がこけて、目の下にクマが浮き出ている。なんという酷い顔だ・・・ 情けない気分で、鏡を見つめる。


お前は・・・お前は、レスタルム市長だ。この闇の時代を、人口3000万もの群集を、飢えさずに生き延びさせた。それだけじゃない・・・インフラを維持して、これまでの快適な生活を続けたいという人々の欲求を満たし、経済を停滞させることもなかった。新規事業も数多く生まれ、技術開発さえ目を見張るものがあった・・・疲弊していく諸外国と違う。ルシスは・・・発展を続けたのだ。血の気の多い連中が、シガイ相手に血眼になっている間、生命線となる電力を一度も枯渇させることなく・・・むしろ発電量を増やし、拡大する都市の隅々まで光を届けさせたのも、この、オレだ。


胸を張れ、オヴァール。あの若造など気にかけるな。そしてあの取り巻きたちも・・・やがては頭を冷やす。時代錯誤に英雄を担ぎ上げても政治はまわらない。サラブレットは、所詮、帝国との戦争でのみ力を発揮する競走馬でしかない。夜が明けたこの世界で必要なのは、腕力ではない。知略なのだ。


自分に言い聞かせて、オヴァールの表情は、少しだけ生気を取り戻したように見えた。その時、外が騒がしくなったのに気がついた。やつらが戻ったのか。心を平静に保ち、やつのペースに飲み込まれるな・・・自分に言い聞かせて、ゆっくりとした足取りで廊下へ出る。


応接室より下のフロアで、なにやら言い争う声が聞こえる。オヴァールは、声のするほうに誘われるまま、階段を下りた。すぐに、警察署長が、王の側近達に詰め寄る姿が見えた。いや・・・実際には、その最前列にいた王に詰め寄っていた。二人の大きな側近の背中に阻まれて、見えていなかっただけだ。


「おい・・・」


オヴァールは、できうるかぎり冷静に、声をかけた。言い争っていたやつらは、はっとして、オヴァールの方を振り返った。その時、あの・・・若造だけは、なぜか不適に笑って、オヴァールを見ていた。


くそ・・・ オヴァールはもう一度、汚く罵る。


あのクソめ! 政治も、ビジネスも何も分からない、阿呆が!


「オヴァール、ちょうど良かった」


飄々として、王は言ったのだ。


「ここの元締めには話をつけてきた・・・今回の件は大事にしたくない。少年のいたずらとして処理する。いいな?」


は? オヴァールは要領を得ずに、首をかしげる。警察署長は、顔を赤くしたり、青くしたりしながら、何事かをまくし立てていた。


くううううう・・・


オヴァールは、頭痛を感じて、額を抑えながら唸った。俯いた視界に、机の脇の小さなゴミ箱が入った。捻りまげられた朝刊が、そこへ押し込まれていた。


”ノクティス陛下の視察中止。暫定居留地にて、不信な爆発物を発見”


その見出しが、ありありと脳裏に思い浮かぶ。


”犯人はすでに自首。地元少年二人組みと断定。爆発物は殺傷能力は低く、少年達のいたずらとして、警察は捜査中”


まさに、王と警察署長が言い争っているときだろう。明け方になって、新たに二人の少年が警察署に出頭してきた。署長は、いやがおうにも言い争いを中断して、一行の前から離れていくと、王は今度はオヴァールに向き合って、二人で話がしたいと言い出した。オヴァールは、主導権を握られまいと、堂々と応じて、応接室まで彼を連れて行った。


そうとも・・・あくまでも、主導権はこちらにあったのだ。


「この地域の住民に、ヤクと銃器の代わりになる事業を起こしたい。事業計画を立ててくれないか。それと・・・投資して欲しい。市長としてじゃない。貴方は資産家だろ。人助けと思って、この地域でも雇用を生み出す事業に投資をしてくれ。双方に利益はあるはずだ。レスタルム市が、彼らを難民として抱え込むよりも、遥かに経済効果が高いだろ」


もはや汚らしく汗にまみれた様子で、流浪人にしか見えないというのに、まったく自分では無頓着だ。自分の言葉は、どこまでも王の言葉だと思っているのだろうか。しかし、一方で、単に無邪気なようにも見える。


「この町の有力者とは繋がれた・・・いわくつきの奴らだがな。必要なら紹介してもいい」


こどものように目をキラキラさせ、楽しそうに身を乗り出してきた・・・ オヴァールは、徹夜で朦朧とし始めた意識の中で、呆然と彼を見ていた。


ジリジリジリ・・・ 折りたたんでベッドの上に放置されていた携帯電話が、振動して、オヴァールは我に帰った。オヴァールのプライベート用の電話だ。もう一つの、仕事用の電話は、もはや、鳴り響く電話に応対できず、秘書に預けていた。こちらの電話の番号を知るのは、ごく親しい身内だけだ。


娘だろうか・・・ オヴァールは、ちょっと躊躇った後に、そっと手を伸ばした。小さなモニターに表示されているのは、しかし娘の番号ではなかった。


ため息をついて、それから、もう一度ベッドの上に放り出す。こいつもしつこいな・・・ カーテス警察署が今朝、記者会見をしてからずっとだ。いつもは、お互いに愛称で呼び合い、酒を飲みながら気楽に下世話な話を楽しめる間柄であったが・・・今は、オヴァールの勘が、彼との接触を回避させていた。


ジスキン・・・


アコルド出身のその商売人は、この10年の間でもっとも成功した経営者のひとりであろう。彼がその表向きの成功の裏で、ひそかに帝国マフィアと交流しているという噂は、かなり前からあった。親交を深めつつ、警戒は怠らなかった・・・ 最後の最後で一線を引いた、その判断はやはり正しかったのだ。


もし、その深部に足を踏み入れていたら・・・ヘタすりゃ、暗殺されていたかもな。


王がマフィア達と接触した事実を、ジスキンは掴んだに違いない。探りを入れようとしているのか。それとも・・・王に接触しようとしているのか。場合によってはすべて明るみになるだろう・・・その鍵は、今は、王とその側近達が握っている。


うううう・・・ オヴァールはまた、胃に痛みを感じて身をかがめた。


腹を決めろ、オヴァール・・・ このままでは自分も巻き込まれかねない。しかし、王はマフィアから守れらるだろうが、このオレはどうだろうか? マフィアたちにとってみても、マーケットを支配する実業家より、無知な王様のほうが扱いやすいだろう。それに、資産家の市長が暗殺されるくらいでは、さほど世間も騒ぐまい。利権に絡んだ不幸な事件など・・・ありふれたドラマのひとつに過ぎない。


オヴァールは、窓から外を眺めた。市庁舎の最上部にある彼の部屋からは、夕日の中の美しいレスタルムの街が一望できる。


オレがつくり・・・オレが守ってきた街。


市庁舎のすぐそばの広場で、小さな子ども達が駆け回っているのが見えた。そうとも、この光景・・・平和で、幸せな市民達の姿。


オヴァールは、ふっと・・・体の力が抜けるのを感じた。そして、胸を張ると、その胸にそっと手を当てる。



ノクト・・・ 遠慮がちに呼ぶ声が聞こえる。うううん・・・唸りながらベッドの上に寝返りを打った。さっき・・・たしか、アラネアがベッドにもぐりこんできて、クソ熱いな、と思っていたのだが、今は誰もいないようだ。


「ノクト。悪いが、起きてくれ」


耳のそばで、イグニスのはっきりとした声が聞こえて、ノクトはそろりと瞼を開けた。近くの窓から、日の光がさすのがわかった。


「何時だ・・・」


「もうすぐ16時だな」


「今日はこのまま、眠っていてもいいだろう・・・」


ノクトは、毛布に顔をうずめる。


「オヴァール市長が呼んでいる。どうしても、話がしたいそうだ」


え? ノクトは唸って、どうしようかと考える。どうせ、抗議をしにくるんだろう。


「何もいまじゃなくていいだろう・・・王都に帰ってからでも」


「オレもそう言ったんだが・・・ちょっと、いつもと調子が違うようだった。腹を割って話したいと、食い下がってな」


ふうん? ノクトは好奇心が沸き起こるのを感じて、ゆっくり体を起こした。大きなあくびをしながら、伸びをする。


「・・・たいして寝てねえな」


市庁舎の戻ったのは確か、昼前だと思うが、それから倒れこむように眠ろうともくろんでいたノクトの思惑は外れて・・・イグニスとグラディオから激しい叱責を受けた。他の者達の前ではちっともそんな様子は見せなかったのに、二人は内心、相当に腹を立てていたらしい。


この無謀な潜入を許可はしたものの・・・単独行動に出るとは、何事だ、と。


「お前の無謀な行動のおかげで、若い隊員が命を落としたかもしれないんだぞ?!」


グラディオの怒りは酷く、今にも殴りかかってきそうだった。イグニスは、それよりは言葉少なだったが、ひとつひとつが感情の困らない冷たい口調で責めてきた。


「ここまでお前を信頼したが・・・正直裏切られた気分だ」


おおお・・・ ノクトは、何の言い訳もできず、ただ反省を示すために床に正座をしたものの、意図せず、疲労感に襲われてすぐに、舟をこきだしてしまった。


いや、わるい・・・ほんと、わるい・・・


グラディオとイグニスの叱責は、しばらく続いた・・・いや、ノクトの意識があった間は。やがて、イグニスが諦めたようにため息をついたのが聞こえた。


「続きは、王都へ戻ってからにしよう・・・これでは意味がない。少なくとも、明日以降の日程も中止をしないと決めた以上は、今日は休まねばな」


おい、怒りが収まったわけじゃねえからな!


グラディオは、ダメ押しに一度怒鳴ったが、ノクトはほとんど朦朧としていた。


それから、シャワーを浴びてベッドにもぐりこんだのは、13時近かったろうか。3時間程しか寝ていない・・・それでも、少しは頭もすっきりしていた。


「オヴァールも、寝てないんじゃないか」


「だろうな。方々から問い合わせが入って、対応に追われているはずだ」


イグニスの声は、とげとげしかった。


「じゃあ・・・会って来るか。まあ、迷惑もかけたし、小言でもなんでも、聞いとくか」


と、ノクトは反省を見せようと、慌てて言葉を繋いだ。わかった、と、イグニスはベッドサイドから立ち上がったが、サングラスの奥で、目が笑っていない気がする。


「・・・そういえば、アラネアは?」


「市庁舎向かいの広場で遊んでる。グラディオがそばについてるから心配はない。実は、昼過ぎにこの間の視察先の中央小学校の児童が、市庁舎まで遊びに来てくれてな」


ああ・・・ とノクトは、3日前に訪れた学校のことを思い出した。アラネアは早速本領を発揮して、授業に混じったかと思えば、休み時間に地元のこどもたちとずっと遊んでいたのだ。


「そいや、仲良くやってたな。どうだ、あの学校? そのうち通わせようかとも、思ったんだが」


イグニスは、一瞬動きを止めた。やば・・・また、機嫌を損ねることを言ったろうかとノクトがはらはらしていると、イグニスは、思い直したようにふっと笑みを浮かべて、振り返った。


「そうだな・・・検討の余地はあるかもしれない」


それから、市長を招くために、寝室を出て行った。扉がパタン、と閉じて、ほっ・・・とノクトは胸を撫で下ろす。しばらくは、怒らせないようにしないと・・・。


それから、のらりくらりと衣服を着替えた。潜入に使った服はどこかに消えていて、きちんとしたシャツと黒いスラックスが、サイドテーブルの上に用意されていた。鏡の前で、ちょっと髪を撫で付けて、寝室を出る。短い廊下の先が、スイートルームの応接室だ。


イグニスは応接室の入り口に直立不動の姿勢で立っていた。応接室のソファには、疲れた様子のオヴァールが腰掛けて、ぼんやりと窓の方を眺めている。ノクトが入ってくると、オヴァールは立ち上がって、


「お疲れのところお呼びだてして申し訳ございません、陛下」


と慇懃に頭を下げる。その様子に覇気がないので、ノクトは面食らって、


「いや・・・こっちこそ、いろいろと悪かったな・・・」


と、歯切れの悪い言葉を返した。オヴァールは、力なく首を振りながら、


「どうです・・・テラスにでて風にあたりませんか」


応接室の正面に開かれている、広いテラスの方に顔を向けた。


「ああ・・・いいな」


ノクトは、弱々しいオヴァールの姿に罪悪感を覚えながら、おずおずと彼の背中に続いた。テラスは、オヴァールの言うとおり、気持ちの良い風が吹き抜けていた。夕日に輝く街の様子が一望できる。その日は・・・だいぶ傾いて、あと少しで沈んでしまいそうだ。きゃっきゃと、こどもたちの笑い声が、風に乗って運ばれてきた。アラネアたちかな・・・ ノクトは目を凝らしてみたが、その姿は見つけられなかった。


オヴァールは、テラスの手すりに手を突いて、街並みに視線を向けていた。


「腹を割って離したいと、そう、おっしゃったでしょう」


「ああ。言ったな。評議会のときだったか・・・」


ノクトも、彼の横に立って、同じように街並みに目を向けた。


「では・・・ここには今、二人だけだ。腹を割りましょう。いいかな・・・正式な発言ではない。ひとりの人間としての、ガチの腹を割るんです。どうです?」


「頼むわ。王だとか、市長だとかなしでな」


「いいでしょう・・・」


それから、ふっ・・・ と息を漏らすのが聞こえた。躊躇いなのか、覚悟なのか・・・ノクトは静かに男の言葉を待った。


「貴方は言いましたね・・・評議会で権力闘争をするなと。これはね・・・権力闘争じゃない。いや、確かにそうでもある。でも、単純な話じゃないんだ。見なさい、この街を・・・奢っていると思われても構わないが、この街を・・・この私の手で築いてきた。普通の奴らではできないんですよ。いいですか。普通のやつらはこう考えるんだ・・・この危険な時代。ただ、生きられるだけでいい。安全こそがすべてだ、と。でも違うんです。いいですか。生きるということは、常に変り続けるということだ。人も、街も、国もね。停滞することは許されない。変り続けなければ・・・それは死人も同然です。そう・・・いわば、シガイですよ。我々は、変りたがってるんですよ。それが、生きるっていうもんです」


オヴァールの持ち上げたこぶしに、力が篭っていた。ノクトに話しかけるというよりは、夕日の中に燃えるレスタルムの街に呼びかけていた。


「この街はね・・・私の夢なんです! 私はここで成し遂げたいことが山ほどある! そのために市長をしている! 自分の夢を実現するために、評議会でも闘う! 貴方とも!」


「いいじゃないか・・・」


ノクトは、ぼんやりと答えた。オヴァールは・・・ムッとした様子で、振り上げていたこぶしを下ろした。


「いや、嫌味でもなんでもないさ。あんたのことは、尊敬しているんだ。今回の視察で、ますますな・・・ オレはニフルハイムで荒野を見てきた。アコルドの街も見てきた。あんたのいう通りだ・・・このレスタルムは奇跡だ。その奇跡を起こしたのは、ルシス王家じゃない。あんたと・・・ここに生きる民だ」


「貴方は・・・」


ノクトは、ちらっと後ろを振り返って、イグニスを見た。イグニスは、先ほどの位置のまま、じっとしている。この場をノクトに任せてくれているのだろう。ノクトは、腹を決めたようにオヴァールの顔を見た。


「いいか・・・これはオレ個人の考えだが、あんたが前に評議会に出した、連邦制度は一考の余地があると思っている」


オヴァールは目を見開いて、食い入るようにノクトの顔を見た。


「ニフルハイム連盟の成立に立ち会ったとき・・・実はオレの頭にも同じ構想があったんだ。魔高炉の共同管理と同様に、カーテスの熱源もルシス全土の共同資産として管理できないかってね。あんたも、まさか、ここのエネルギーをレスタルムだけで占有すべきとは思ってないよな?」


「もちろん・・・それは心得ています。私とてね・・・ルシス全土の復興は、自分の夢のうちですよ。王都も廃墟のままにしておきたいとは思わない。しかし・・・可能な限りの自治は維持したい」


「それにも、異論はないさ。もとより・・・オレは、細かく指図するのは面倒だし、いちいち全部面倒を見るなんて無理だと思ってる。ただな・・・王室の存続については、確かに、いまだにルシス王室を心の支えにしている人間はいるんだ。良いか悪いかは別としてな・・・その気持ちは踏みにじりたくない」


オヴァールは、頷いた。


「それは理解できます・・・王室の完全撤廃は、明らかに混乱を招くだけでしょう」


「ああ・・・オレ個人の問題じゃなく、ルシスの民を分裂させる危険がある」


「わかりますよ、わかりますが・・・だからと言って、王室の復権を望む連中は、どうかしてる。10年以上前の、威光にすがろうなんて、私から言わせれば、正気の沙汰ではない」


ふふふ と、ノクトは思わず笑いを漏らした。オヴァールは、しばし、熱が入りすぎたと恥じている様子だった。顔を赤らめて、頭をかく・・・


「・・・失礼しました。貴方が権力に固執していない善良な一個人だということは、私もようやくわかりました。別に、貴方個人を責めようというのではない。しかし・・・そう、いいか悪いかは別として、貴方と奥方は、このルシスでやはり影響力を持つのです」


「それを・・・無力化したいか?」


ノクトは、いたずらっぽく笑いながら聞いてみた。オヴァールは、一瞬、唸ったが、やがて首を振った。


「そう思ったときもありましたがね。いや、これからも何度もそう思うかもしれませんが・・・たった今の正直なところを申しますとね」


そして、大きなため息をつく。


「・・・貴方のその影響力も、私は利用したいと思っていますよ」


へええ、 とノクトは驚いて見せた。


「利用するだけの価値があるって、認めてくれたのか?」


やれやれ・・・ どこまでも無邪気なノクトの反応に、オヴァールはあきれ返っているようだった。


「今回、少々、乱暴な遣り方で、暫定居留地の突破口を開いたでしょう・・・とてもほめられた遣り方ではないが、ぼやいても仕方がない。サイはなげられた・・・引き返すことはできない。だが、貴方の言うとおり、チャンスとして捉えられなくもない。貴方のお申し出、引き受けてもいい。ただし・・・私のシナリオを受け入れていただければ」


「なんだ?」


ノクトは、ちょっとだけ、警戒した様子を見せて、オヴァールを見た。オヴァールは動じず、その顔は真剣だった。


「王都に戻られたら、臨時の評議会を召集なさい。そこで・・・私は貴方の手腕を認め、早期の即位を提案する。私が提案すれば、反対者は出ない。貴方は間もなく王位につく。その後、すぐに評議会を正式承認していただきたい」


「その後は・・・?」


「もちろん、それで終わりではありません。評議会が正式承認された後、私はレスタルムの住民投票の実施を要望します」


「住民投票?」


「そうです。いいですか・・・これは、調査目的です。はじめは、効力を持たせなくても結構。今後議論を促進するための下調べといえば、反対する者も少ないでしょう。問うのは、レスタルムの独立です」


さすがにノクトは押し黙ったが・・・しかし、すぐに、にやっと笑い返した。


「あんたの提案に賛同する。何も裏取引の必要はないだろ。評議会で堂々と提案してくれ」


オヴァールは、じっと怖い顔でノクトを見ていたが、やがて、つられる様に、にやっと笑った。

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