Chapter19.9-ジールの花-

朝日の差し込む中、家の表でイサは忙しそうに立ち働いていた。家の前の斜面に小さく作られた家庭用菜園の手入れをし、今朝の食事につかう材料をいくつか見繕う。いつもはシナがやっている仕事だが、今日は少しばかり早く目が覚めてしまったので、イサが自分でやることにしたのだ。

昨日ようやく、客人が墓地を降りて家で休んだのを見届けて、それでユハ夫妻も、ここ数日の心労があったのか、いつもより早々と寝床に入ると、一家してみんなぐっすりと眠ってしまった。イサは、いつもより早く目が覚めた…と言っても、普段に比べるとかなりの時間、熟睡していたことになる。いつもは、朝の勤めのために早々と起きている夫は、疲れた顔をしてまだ寝入っていた。妻は声をかけずにおいた。

人の気配がして、イサは顔を上げる。見れば…朝から泣きはらした目をしてー自分でそれを自覚しているのだろう。恥ずかしそうに少し俯いているー、 客人のノクティス王が、イサの方へ近づいてきた。


「おはようございます。ノクティスさん」


「ああ、おはよう…」


客人はちょっと躊躇ってから、


「その…あんたには、いろいろと迷惑をかけたな」


と言った。

イサは、消耗してすっかりやせ細ったその男が、しっかりと回復の道を歩み始めたのを感じた。


「いいえ。どうぞ、気にならさずに。まだ、お体が完全ではなりませんから、しっかり食べ、お休みになって」


イサは、やさしく笑い返した。

ああ… と、母親に諭されたように恥ずかしくなったのか、客人は顔を赤らめた。それからいいにくそうに


「…あつかましいんだが、ちょっと、借りたいものがあって」


と切り出した。


「はい、なんでしょうか」


「その…墓を、綺麗にしてやりたいんだ。バケツとか、そんなのがあれば…」


イサは、はっと、胸が苦しくなった気がして、思わず胸を押さえていた。しかし、すぐに、いつもの冷静さを取り戻して、


「もちろんです。では、後でお持ちしますね。朝食の後でよろしいですか?」


「ああ、それと…できれば、そいつも欲しいんだが…」


と、照れくさそうに視線を送った先は…家庭菜園の脇に咲き誇っている花々だった。その中に、ジールに似た青い花が混じっていた。イサは、また、じわっと熱いものがこみ上げそうになって、ちょっと客人の方を見れなかった。


「綺麗なものに…替えてやりたいんだが。少しだけわけてもらえないか?」


イサがこちらを向こうとしないので、客人は申し訳なさそうに言い添えた。イサは、一呼吸置いて気持ちを落ち着けてから、客人の方に笑顔を向けた。


「お任せください。素敵な花束をおつくりいたします」


ノクティスは、ちょっとはにかんで、お礼を言うと、宿として提供しているノヴィアの家の方へ去って行った。その姿はまるで、初めてのデートに浮かれている青年のようにも見えた。


純粋な方なのね…


疲れきった容貌とは異なる一面… クリスタルの中に10年閉じ込められていたというルシスの王。その心は…まだ、20の青年のままなのでは。

イサの胸が、また苦しくなっていた。



「おい、起きろ」


はっとして、プロンプトは目を覚ます。ノクトがちょっと疲れた顔で、あきれたように笑っている。なんか寝苦しい…と思ってみたら、アラネアが、自分の腹の上で寝ている…さすがに重い。密着してたせいで、二人ともひどい汗を掻いている。


「あーちゃん…重いから降りてぇ」


アラネアは、顔を上げた。顔を押し付けていたところは、ヨダレでビショビショに濡れていた。


「うう…オレ、シャワー浴びてくるね…」


「早くしろよ。もう、朝飯だってシノが呼びに来たぞ」


わかったぁ… 大きなあくびをして、プロンプトが寝室を出て行く。アラネアは、しばし、ベッドの上にぼおっとしていたが、はっと気がついてノクトの方を見た。


「ノクト!」


「おはよう、アラネア」


「おはよう!」


アラネアはにかーっと笑う。と同時に、ぐうううう、と豪快に腹の虫が泣いた。

久しぶりに、3人そろっての朝食だ。加えて、シノ、スイ、ユハに、イサのリーベリ一家も顔をそろせている。いつもよりは遅い朝食のようだ。みな、何か浮き足立つような、それでいて、遠慮がちに興奮を抑えているような、そんな、へんちくりんな空気が漂っている。こういうときに真っ先に、声を上げるのはアラネアだ。


「ノクト!たくさん食べないとダメだぞ!」


と、ストレートに言う。ノクトは、ふっと笑って


「まあ、少しずつな。まだ胃が慣れないんだ」


といいつつ、イサが気を効かせて用意をしてくれた、口当たりのよいスープから手をつけた。この会話で、一同の間のちょっとした緊張はほぐれて、シノもスイも安心した笑顔を見せた。

アラネアは、いつもどおり、周囲を驚かす食欲を見せて、結局、ノクトが残したものはアラネアの胃におさまった。プロンプトも、ようやくいつもの食欲を取り戻して、ついつい食べ過ぎて、胃がもたれてしまった。3人の様子を見て、リーベリ夫妻も安堵の表情を浮かべる。歳こそ、ノクトたちとそれほどかわりはしないが…まるで、下宿屋の世話人にような気分だ。

食後、ノクトたちは、イサから、バケツと柄杓、タワシ、そして、青い花を中心とした見事な花束を受け取って、墓地へ向かった。途中まで、ユハも一緒だ。昨日までの、悪夢のような鬱屈とした空気が嘘のように、一同は和やかに話をしながら墓地までの道のりを歩いた。アラネアは、のんびりした大人たちを置いて、ひとりで藪の近道を通っていってしまう。大人たちは、あきれたようにその背中を見送りながら、自分たちは相変わらずのんびりと、道に沿って墓地へ向かった。

墓地の手前でユハは別れ、そのまま神殿に向かう。神職の務めとはなんだろうな。神殿の手入れをして、その後は、ずっと祈りをささげているんだろうか…ちょっと不思議な気分で、ノクトはその背中を見送った。

アラネアは、待ちきれずにノクトとプロンプトに手を振りながら、ルーナの墓の前で飛び跳ねていた。ノクトは持ってきたバケツを墓の前に置く。


「よし、これでぴかぴかに磨け」


と言って、二つあったタワシのうちひとつをアラネアに渡す。プロンプトが柄杓で少しずつ水をかけてやって、ノクトとアラネアで墓石を磨いた。うっすらと覆っていた苔があっという間に磨き落とされた。


「あんまり、強くこするな!石が傷つくだろ!」


ノクトが文句を言うと、アラネアは、あー、ごめん、と言って、やさしく墓石をこする。そんな二人のやり取りをみながら、プロンプトはくすっと笑った。

およそ土や苔を洗い落として、最後に盛大にバケツの水をかける。すっかりぴかぴかになった墓石が、まだ昼前の日の光を反射していた。

ノクトは改まって墓石の前に跪き、花束をその石の前に置いた。柔らかな風が吹き抜けて、青い花弁を揺らした。


「綺麗になったなあ!花も綺麗だ」


アラネアが顔を輝かせて言う。


「そうだね」


プロンプトも嬉しそうだ。

ノクトは静かに微笑みながら、しばし目を瞑り、黙る。


綺麗になったよ…


心のうちでルーナに呼びかけた。


「この花さ、テネブラエで見た花に、似てない?でも、ちょっと違うかな?」


プロンプトが言う。


「…似ているが、ちょっと違うな」


と、ノクトは目をあけて、答えた。


「ジールの花は、ひとつひとつは小さな花がいくつも連なって、あたかも大きなひとつの花のように見えてるんだ…こいつは、似ているがひとつの茎にひとつの花が咲いてる…ほら」


と言って、ノクトは花の花弁を開いて見せた。茎の先に連なるように、花弁の真ん中にだけ、おしべとめしべの束が見えた。

へええ、と感心してプロンプトは覗き込む。


「ノクトが植物に詳しいとは知らなかった!」


「こいつだけは、いつだったか図鑑で調べたことがあってな」


さて…とノクトが立ち上がったので、アラネアとプロンプトもつられて立ち上がった。ノクトはちょっと照れるように鼻の頭を掻いて、それから、


「お前らにも…その、心配かけて、すまなかったな」


と言った。

アラネアとプロンプトは、えっ と驚いて顔を見合わせたが、そのあとすぐに笑顔になって、それから、思わず、ぷぷぷぷぷぷぷ と噴出していた。


「なんだよ、こっちが真面目に、言ってんのに…」


ノクトはぶすっとする。


「ごめんごめん、だって、そんなあらたまるんだもん!」


と、プロンプトは、実はじんわりと目頭が熱いのをごまかすように笑った。


「ノクト、ゆっくりでいいんだよ。まだ、ゆっくり体も心も休めてさ…」


それで、ノクトのほうも、思わず目頭を押さえた。


「わりぃな… ちょっと、時間をくれな…」


思いがけず涙声になっていた。

もう! とアラネアは頬を膨らませる。


「二人とも泣き虫だな!」


ノクトとプロンプトは、二人で顔を見合わせて、涙を拭きながらアラネアに笑った。


「ほんとだねー、あーちゃんはやっぱ最強だな」


「そうだな、アラネアが一番強いわ」


二人が同時に言うので、アラネアは、ふふん、と得意げだった。3人は昼まで、墓地のまわりでのんびりしていた。アラネアの腹時計に合わせて、家の方へ戻ると、ちょうどよく、3人を呼びにイサが家から出てくるところだった。

ノクトは改めて、借りてきたバケツをイサに渡して礼を言った。


「あの花…ありがとな。墓がとても華やかになったわ」


「いいえ。喜んでいただけてよかったです」


イサは、親しげな笑みを向けて、バケツを受け取った。


「あの青い花だが…ジールによく似ているな。なんという花なんだ?」


と、ノクトは聞いてみた。


「…ええ、ジールによく似てますね。地元に昔から咲く野花を、株をとってきて植えつけたものです。このあたりでは、リンネの花と呼ばれます」


リンネか…響きからして、死者を弔う花なのだろうか、とノクトは想像する。


「あなたは、ルーナとは親しかったのか?」


なんとなく、あの青い花を中心に花束を作ったのは、ルーナの故郷を知ってのこと、と思えたのだ。イサは表情は変えずにただ首を振って


「申し訳ありません…私の口からは何も。クヌギ様にお伺いいただけますか」


と、やんわりと返答を拒んだ。ノクトはすぐに気遣って、


「そうだった…悪かったな。気にしないでくれ」


と言い添えた。ここでルーナがどんな日々を過ごしたか、それさえも口止めされているらしい。

聞こうと思えば…話が出来るのは神主だけか。そこまでの秘密主義なのか、それとも、何かこの地の秘密と関係しているんだろうか…


「さ、昼食の準備が出来ていますので中へ…」


イサは、3人を家に招いた。居間に入ると、姉妹の姿が見当たらない。不思議そうにしている3人に、


「こどもたちは今、学校へ行ってします」


と、説明した。

アラネアはぽかーんとしている。


「ガッコウてなんだ?」


「文字の書き方や読み方をならったりさ、あと、数の数え方とかも」


プロンプトが答える。

ノクトは、アラネアが教育を受けていないことを思い出した。いずれは、なんとかしてやらないといけない、と思いつつ、この道中だったので、何も手を打っていなかった。


「よかったら、アラネアさんも、明日から一緒に行きますか?」


え?! と、ノクトとプロンプトは、驚いた声をあげる。


「おー!行く!」


アラネアは乗り気だ。


「それは…ありがたいが…しかし、いいのか?」


アラネアがいきなり、集団で勉強できるともとても思えず、ノクトは不安になっていた。


「学校と言っても、都会でみるような大げさなものではありません。この、先少し下ったところに、神職の昔からの一族が住まう地域があるのです。そこで、私の親族が子どもを集めて簡単な指導をしております。夫も時々そちらへ」


イサはノクトの気持ちを察するように言った。


「アラネア…お前、ちゃんと言うことを聞いて勉強できるか?」


「文字を書けるようになるか?手紙とかか?」


「ああ…そうだな」


「本も読めるな!あの、デイジーにもらった本も!」


デイジーにもらった、古い絵本のことだろう。プロンプトが寝かしつけるときに時々読み聞かせているやつだ。


「そうだな…勉強すれば、自分で読めるぞ」


「勉強する!!」


アラネアは目をキラキラと輝かせて身を乗り出した。こいつがこんなに乗り気とは…ノクトは意外に思う。自由を愛する野生児だとばかり思っていた…しかし、実は渇望していたのだな。こいつも、人としての’知’を…。ノクトは自分の思い込みを反省する。


「そうか…じゃあ、明日から行って来い」


わーい!!! とアラネアは飛び上がる。プロンプトは、イサに、よろしくお願いします、と頭を下げた。


「あ、あの…騒ぎを起こしたら、すぐに迎えに行きますからっ」


「ふふふ。ご心配なく。この土地の子どもたちも、なかなか元気なのが揃っていますから」


昼食後、イサは気を利かせて、アラネアを連れて学校の見学に出かけた。どのみち、午後も早いうちに学校がはけて、姉妹も帰ってくる。しばらくこの一帯で世話になるから、アラネアを連れて挨拶もしてくる、という。ノクトたちを休めたいという心遣いでもあった。

ありがたく、アラネアをイサに任せて、ノクトたちは宿として提供されている家まで戻った。これまで朦朧として気がついていなかったが、リーベリ家より一回り小さいその家は、こじんまりとしてはいるが、よく手入れされた快適な家だった。小さな小物の飾りや、家具に被せられたキルトが、暖かな雰囲気をかもし出している。

そういえば、女性の家のようだったな…とノクトは思い出す。

寝室のベッドにも、手製のようなカバーがかけられていた…それが、ちょっと泥で汚してしまっているのが申し訳ない。

朝食に引き続き、昼食も食べすぎたプロンプトが、遠慮なくブーツを履いたままベッドに横になった。


「おい…ブーツくらい脱げよ」


「え?なんで?」


「なんでって…なんか悪いだろ。留守の家を使わせてもらっているって、言ってなかったか」


あ、そうか…と、プロンプトはきょろきょろして、


「あらぁ…カバー結構汚しちゃってる…それに絨毯も」


と、まずそうな顔をした。


「どうしよう。このカバー刺繍とか入っているしさ。絶対女性の部屋だよね」


「だな…あとで、イサに謝って洗い方を教わろう」


「そうだねぇ…落ちるかな?」


プロンプトは急に不安になって、壁だの、ベッドサイドだの、汚してしまったところはないか、と物色し始めた。ノクトは、よっこらしょ、と自分は慎重に靴を脱いでからベッドに横たわる。


今日は、これから昼寝だな… アラネアを連れてってもらえて、本当助かる…


早くもノクトがうとうとしはじめたときに、プロンプトが、あ!! と大きな声を上げた。酷く汚してしまった場所でも見つけたか…と、ノクトは薄目を開けた。


「ノクト!足元!」


なんだよ…やっぱり泥でもつけたか、と思って、ノクトは慌てて身を起こした。プロンプトがベッドカバーの足元の方を指差していた。幸い、ベッドカバーに目立った汚れはなさそうだったが…そこに施された刺繍が目に留まった。

青い花弁が幾重にも折り重なった、花の刺繍…


「ジールだ…」


「だよね?!ね、ノクト、ルーナ様の手帳って持ってきてないの?」


ノクトは自分のバックパックをあさった。汚れないように慎重にビニルをかけて奥の方にしまってあった。汚れを恐れて、荒野にでてからあまり開いていなかったんだっけ…

手帳を無造作に開くと、すぐに、ジールの押し花が目に飛び込んでくる…今も変わらぬ、深い藍色をして。

プロンプトが、ノクトの後ろから覗き込んで、手帳と刺繍とを見比べる。


「ほら、やっぱり!ジールの花だ!」


「ああ…」


すると、この家は… 


「もしかして、ルーナ様が、ここで過ごされたのかなぁ…」


「…そうかもしれないな」


ノクトはそっと刺繍に手を触れた。

それから、手帳を手にしたまま、ベッドに横になる。白い天井を見上げてみた。


こんな風にして、ルーナも天井を見たのだろうか…


その気持ちが、わかるかもしれないと、少し目を瞑ってみた。急に、ルーナの匂いさえ感じるような気になった。…そして、そのまま、気持ちのよい眠りの中に落ちていった。


目を覚ましたとき、ノクトはまだ、胸に手帳をしっかりと抱きしめていた。窓は、まだ雨戸をしめていなかったので、夕暮れに染まる空がよく見えた。


あれ、もう夕方か?


時間の感覚がわからないくらい、ぐっすりと熟睡していたらしい。居間に人の気配はするが…静かだ。アラネアは、ユハの家か。

ノクトは、ゆっくりと体を起こして、もう一度手帳を開いてみた。ジールの花…そして、刺繍を見る。ルーナの存在を感じてみようとする…手が届きそうで届かない、そんな悲しい記憶ばかりが蘇りそうになる…ノクトは、手帳を閉じた。


「ノクト、起きた? 今、ちょうどお茶をいれてるけど」


「ああ、もらうわ」


ノクトは手帳をバックパックに仕舞い込むと、居間に向かった。


「よく寝てたねぇ」


「そうだな、おかげで、だいぶ体が軽くなった」


ノクトは伸びをしながらソファに腰掛ける。ハーブティらしき、野性味のある甘酸っぱい香りが、ポットから立ち込めていた。


「へえぇ、なんだこれ。やけにシャレてんな」


「うん、台所に手作りのハーブティがいくつか用意されていてさ。しかも、効能がきのメモもついていて。これ、疲労回復にいいらしいよ」


「へえぇ」


と言って、ノクトはお茶をすする。甘酸っぱい香りとは違って、味は、ちょっとスパイシーだ。確かに、弱った胃腸にしみこんで行く感じがする。

はああああ… 気持ちよく体から力が抜けて、大きな息を吐いた。


「明日、神主のところへ行ってくるわ」


「ルーナ様のこと…聞きに行くの?」


ノクトはうなづいて、


「ここで、ルーナがどんな風に過ごしたか知りたいからな…そのためには、あいつにちゃんと話を通す必要があるだろう」


「でも…大丈夫?あの人さぁ、結構、当たりが強いって言うか」


ふふ、とノクトは笑って


「頑固だが…悪いやつじゃないさ」


プロンプトも笑った。


「そうだね。口ではキツイこと言ってるけどさぁ、結局、ノクトのこと、助けてくれたもんね」


ルーナも、このハーブティを、こんな風に飲んだのかな? と、思いながら、また一口、お茶をすすった。まったく、単純な男だな、と自分で苦笑した。


その夜から、アラネアはまた、リーベリ家で世話になることになった。ノクトたちの家にはベッドが二つしかないので仕方がない。と言っても、アラネアも、もう不満はなかった。次の日から通う学校のことで頭がいっぱいで、夕飯のときも、見学してきた教室の話ばかりだ。


「先生がいるんだぞ!壁にいっぱい文字を書いていたぞ!」


「それから、まるっこい石を並べて、数を数えるんだ!」


「シノが、なんでも答えちゃうんだ!シノはすごい!!」


アラネアがごはんを口から飛ばしながら、まくし立てる。


「こら、アラネア!食べながらしゃべるな、食べ物が飛び出すだろ!」


ノクトがしかると、ちょっと頭を掻いて、口を閉じた。


「シノちゃんは優秀なんだねぇ」


プロンプトに言われてシノは顔を赤らめる。


「集落で提供しているのは、せいぜい初等教育だがな… あとは個別に、限られたものが家庭教師をしているが、それにも限界があって」


とユハは急に、暗い様子で切り出した。イサは聞かない振りをしているのか、さっと、何かを取りに台所へ去って行った。


自分から内部事情を話すなんて、珍しいな


「その…アコルドはどうだ?真っ当に、教育などのインフラは機能しているのか?」


ノクトとプロンプトは顔を見合わせた。


「どうかな…そっちまで気が回らなかったので確かめたわけじゃないが。しかし、観たところ、国家として最低限の機能はしているようだった。たぶん教育機関も生きているんじゃないか」


「あそこは、聖務庁もまだあったくらいだしね。ほかの官公庁も残ってそうだよね」


ユハはちょっと驚いて


「聖務庁…まだ、あるのか」


「ああ…もうすぐ解体されるだろうと言っていたが。副長官の男…なんといったかな。あんたのもと同期だと思うが」


「クラム・クルーか…」

ユハは、ちょっと複雑な表情をして、押し黙った。それから意を決したように、

「食事の後に、そちらの家で、詳しく話を聞かせて貰えるか?」

と言った。

「ああ、もちろんだ」

ノクトは快く引き受けた。
そうと決まれば大人たちは早々に夕食を切り上げて、ノクトたちの家に向かった。ユハは、ノクトの体調を気遣って申し訳なさそうにしていたが、昼寝のおかげで、ノクトにはほとんど疲れも感じていなかった。それよりも、ユハが何か腹を割って話をしてくれるかもしれない、と、期待を高めていた。
今に入ると、プロンプトが気を利かせて、お茶を入れに台所へたった。

「アコルドは…いま、どうなっているんだ?」

ユハは待ちきれずに口火を切る。

「アコルドは…驚くほど被害が少ない様に見えた。初動がよかったらしいな。早々と多くの地域を放棄して、守りを固めたんだ。オレが見たのはせいぜい、オルティシエと、ヴィエントス、それにケルカノまでに通り過ぎた地域だけだが…少なくとも基本的なインフラは機能していた。ただ…問題は、ケルカノに押し寄せる難民と、政府の動きだな…」

ノクトはここへ来るまでに目にしたケルカノと、その先のニフルハイムの状況を説明した。シャンアールのように生き残った集落があることは、ユハには驚きだったようだ。

「我らが隠れ里は点在しているが…他の地域では、生き延びるのはほとんど絶望的だと思っていた…驚いたな」

「シガイを寄せ付けない隠れ里か…。いったいこの世界にどのくらいあるんだ?」

ユハは、うっ、と難しい顔をして、申し訳なさそうに目を伏せた。

「それもタブーか…」

プロンプトはお茶の入ったカップを配りながら、

「少しもダメなの?こっちも協力してるのにさ…」

と、非難の目を向けた。

「すまない…」

半ば予想がついていたノクトは、いいさ、と、笑った。

「あんたの立場が難しいってのは、よくわかってるつもりだ」

「それで、アコルド政府の動きというのは…」

「ああ…アコルドは三年前に首相が変わって、今の首相は反ルシス派…帝国の亡命貴族と繋がりが深いらしい。アコルドのハンター協会でも悪い噂ばかり聞いた」

「帝国の亡命貴族?!」

ユハは上ずった声をあげた。

「まさか、帝国は滅んだはずでは…」

「皇帝は間違いなく滅んだ…だが、しぶとく生き延びた連中がいる。きな臭い噂が飛び交ってる。予言と違うって、文句を言ってた男がフラン地区にいたぜ」

ユハはまた、黙った。

「ここも…いつまでも無関係ではいられないだろうな。見たところ、あんたらの魔法はあまり強くない。ルシスの障壁のような力はないんだろ。これまでの通り、隠し通せるのか?」

ユハは、テーブルに肘をつき、組んだ両手を額に押し付けた。深いため息が漏れる。

長い沈黙が続いた。

「お茶、冷めちゃうよ…」

プロンプトは不満げに呟く。何も言おうとしないユハに、納得がいかない様子だった。
ノクトは、慰めるようにお茶をすすった。今朝とは違う味と香りだ。爽やかなレモンの香りが、鼻を抜ける。

「これはなんの効能があるんだ?」

「うん…心安らかに、そして素直になれるって書いてあった」

ふうううう と、また、ユハが深いため息をつく。それから、真面目くさった顔で、自分もお茶を飲んだ。はあああ… 続けて深呼吸をする。何か言おうか言うまいかと、迷っているようにも見えた。

「ねぇ…この家…ルーナ様が過ごされたの?」

プロンプトが横目でユハを見つめながら、聞いた。

「…そうだ」

ユハは、かろうじて答えた。しかし、すぐに目をぎゅっとつむり、辛そうな顔をする。そして、徐に立ち上がった。

「すまない…やはり、これ以上は、私の口からは何も話せない。しかし…クヌギには、なるべくあなた方の質問に答えてくれるよう、私からも頼んでみる。それでも難しいかもしれないが…」

ユハは頭を下げると、ノクト達の家を後にした。

「なんか、隠してるよねぇ…」

「ま、そうやって守ってきた場所なんだろう」

ルシスにも山ほど秘密はあったしな…

ノクトは、プロンプトほどには、気持ちが波たたなかった。

次の日の朝は、朝食の席に、すでにユハの姿はなかった。今朝は早くから勤めに出たらしかい。アラネアは、昨晩のうちにイサが用意してくれたカバンを、ノクト達に自慢した。姉妹とお揃いの布のカバンだ。首から下げるように長い丈夫な紐がついて、ワンポイントの刺繍も入っている。中には勉強道具の他に、弁当の包みも入っていた。

「見て!見て!」

「ああ、すごいな。よかったじゃないか」

学校なんてめんどくせぇ、とばかり思っていたノクトは、アラネアの喜びようが新鮮だった。一瞬、ケルカノの子ども達のことが頭をよぎる。あの状況で、学校なんて誰も手が回らないだろうか…やはり、喜ぶだろうか?

アラネアは、いつもにも増して早食いになり、シノとスイが支度を終えるのをいまかいまかと待った。小学一年生の子どもを見送るように、ノクト達は通りに出て、アラネアの登校を見送った。アラネアは何度も何度も振り返って、嬉しそうに手を振った。最後には、シノに手を引かれて、ようやく最後の曲がり道を折れていった。

プロンプトは目頭を押さえていた。

「オレ…なんか、じーんとした!」

「はあ?!」


ノクトは飽きれてプロンプトを見る。まったく、親バカなやつめ…。

「ノクトは、そういうとこ、冷たいよね?!」

と、プロンプトは抗議する。

「よく考えんてみなよ!はじめは人間なのかどうかもわからない、正体不明のちっこい怪物だったのにさ… それが、ちゃんとおしゃべりできるようになってさ、自分で服を着替えて…お箸でごはんも食べられるようになって…今度は学校だよ?!」

マジ泣いてやがる…

ノクトは、引き気味に親友を見る。

「信じられないよ…こんな日が来るなんて」

「そう言われれば、そうだな…」

浸る親友の気持ちを無下にするのも悪いと思って、適当に相槌を打つ。

「さあて…オレはそろそろ、神主に会って来るわ」

ノクトは、いまだアラネアの去った方を見つめてじんわりしているプロンプトの肩を叩いて、そっと、その場を離れた。

プロンプトのアラネアへの熱も、たいしたもんだな、と、他人事のように思う。自分の出生と重ねるところがあるのかもしれないが…しかし、昔はそんなにこども好きだったとは、記憶していない。そう言って見れば、あの旅をした4人でこども好きなんていなかったが…グラディオの娘の溺愛ぶりを思い出すと、これも、歳を重ねた結果なんだろうか。

ノクトは、ユハの家から墓地の方へ向かう途中、自分たちの宿にしている家の庭先から、一本花を抜いてきた。今朝見たとき、ピンクの花びらが愛らしいと思った小さな花だった。誰かがそばにいては、ちょっと手を伸ばすのが躊躇われた。

昨日も花束を飾ったばかりだが、いいよな…毎日、一輪くらい新しいものを持って行っても。

ノクトは、花を摘んだとたん、自分の気持ちが浮足立つのを感じた。

バカみたいだな、墓参りだってのに…

空は雲が多いが、雲の切れ目から日差しがよく差し込んでいる。天気は持つだろう。墓地へ着くと、昨日の花束は、まだ鮮やかな藍色で、墓を彩っていた。ノクトはそこへ、ピンクの花を添える。重厚な花束の横に、ピンクのワンポイント… 急に、墓が楽しげな雰囲気になった。

ルーナ… おはよう
今日も綺麗だ…

その頬に触れるように、そっと暮石の脇に手を触れた。
しばし、静かな風の音を聞く…

また、悲しみが沸く前に…と思って、ノクトは立ち上がった。そして、まっすぐに神殿に向かう。もう2度と足を踏み入れるな、と言われたことだし、入り口から声をかけるほうがよかろう、と考える。回りくどいことは、通用しないだろう…筋を通して、食い下がるしかない。

神殿の表の方へ回ると、その入り口は、うっすらと扉が開いているのが見えた。あれだけ秘密主義の癖して、意外と警戒がないな…と、思う。

恐る恐る覗き込んでみる…また、祈りの最中に邪魔なんかしたら、どんなにどやされるだろう。しかし、すぐに話し声が聞こえてきた…それも、食って掛かるような声…あれは、ユハか?二人の声は遠いが…神殿に反響して途切れ途切れに言葉が届く。


…あなたは…本当に…黙って… 


ユハが責めるように声を荒げている。


珍らしいな…


ノクトは、一瞬このまま盗み聞きするかと迷ったが…しかし、正面から挑もうと思った相手に、不誠実な気がした。


「じゃまするぞ」


と、わざと大きな声で呼びかけた。途端、しん、として、二人が会話を打ち切ったのがわかった。ノクトは、一歩だけ中に踏み込んで、顔を見せた。奥の祭壇の方で、二人がこちらを見つめているのが見えた。


「邪魔してわるい…いつでもいいんだが、クヌギ、あんたと話がしたい」


ノクトは、大きな声を張り上げた。ノクトの声は神殿の奥まで反響して、しばらく余韻を残した。余韻がきれるのを待つ。遠くてよく表情が見えないが、クヌギが、じっとノクトのほうを見ているのが分かる。


「そこで盗み聞きか?」


ノクトよりも野太く、大きな声が神殿に響いた。


「いや」


とノクトは即座に答えた。


「正直、そうしてもよかったんだが。あんたとは正面から話がしたくてな」


ノクトも負けじと低い声で返した。余韻がまた響く。

神主はじっとノクトを見つめたまま、しかし、何事かをユハに言いつけているようだった。こちらからは、声が聞き取れない。ユハは、ゆっくりとうなづいて、祭壇の奥からノクトの立つ、入り口のほうへ歩いてきた。

クヌギの声がまた響く。


「ルシスの王。いいか、鏡をみず、一度も足を止めることなく、まっすぐにこちらまで歩け。足を止めたら最後、お前は永久に囚われることになる…ルナフレーナの幻影にな」


はっとして、ノクトは息を呑む。そう言われた途端、ルーナの息遣いを感じた気がしたからだ。それは、あまりに生々しい…。


「もし、お前がそれを望むなら、止めはしないがな」


クヌギは馬鹿にしたように付け加えた。ノクトは、きっと、目を見開き、挑むように神殿に足を踏み入れた。向いから、ユハがきつく口を結んで、こちらに向かってくるのが見えた。ノクトは、ユハの顔を凝視しながら、前へと突き進んだ。白いドレス姿の女性の姿がちらちらと、視界の端っこを掠めた。ノクトは、視線をずらしたい欲望に駆られる。

ふふふ…やさしく笑うような呼吸も聞こえる。その目が…ノクトに微笑みかけているのが、見なくても伝わってくる。ノクトは一瞬目を閉じた。その目から、すっと、一筋の涙が流れた。


「ノクティス!あゆみを止めるな…!!!」


低く小さな声が近くでした。はっとして目を見開く。ユハが、怖い顔をして、ノクトの横を通り過ぎるところだった。ノクトは、もう一度顔を上げ、そして、今度は迷いのない足取りで、まっすぐと奥の祭壇まで続いた。

相変わらず馬鹿にするように見下ろしている神主の目の前まできて、ノクトはほっと胸をなでおろした。振り向くと、神殿の扉から、ユハが出て行くところが見えた。扉から出る直前、ノクトが無事、祭壇までたどり着いたのを見届けたように、ユハはうなづいていたようだった。


「ふん…危うかったな」


「まあな…」


クヌギの憎まれ口を、ノクトは素直に認めた。


「確かに、やばかったわ」


しかし、今はもう、ルーナの気配は感じない…それが、少し寂しく思う。


「それで…話とは?」


もう分かっているという顔をしながら、クヌギが高圧的に聞く。ノクトは、正面にクヌギの眼差しを受け止めた。


「ルーナの事を聞きたい…3年の間、ここでどんな時間を過ごしたか。最後は…どんなようすだったのか」


ふん と、クヌギは、いつもどおり鼻を鳴らした。


「覚悟はしているんだろうな? 私が話すということは…繕うことなく、そのまま伝えると言うことだぞ」


「ああ…わかってる。ただ、本当のことを知りたいんだ」


ふん。クヌギはもう一度鼻を鳴らした。腕を組んで、ノクトの覚悟を見定めているような目をする。


「では聞かせてやろう」


クヌギの声は、なぜか怒りに満ちていた。


「神凪は…お前も知ってのとおり、瀕死の傷を負ってここへ運び込まれた。ユハが、六神の使いとやらにほだされてな。ユハは、テネブラエのとある集落の護り手でありながら、我々の掟を破って六神と接触し、神凪を保護した…あやつも、我らが信仰の予言は知っていただろうに。まさか、自ら予言を妨げるとは」


その言い草は、やや自嘲気味だった。


「ここへ運び込まれたとき、まさか、長く生き延びるとは思わなかった。ほとんど致命傷のように見えたし、どうしてオルティシエからここまで息があったかと不思議なくらいだった。私にも、その最後を少しばかり安らかにしてやるくらいの情けはある。しかも、神凪の到着と同じくして外の世界は黒い霧に覆われてしまったからな。本来ならば考えられないことだが、私はユハと神凪を受け入れた」


神主は大いに後悔しているとでもいわんばかりであった。彼の言い草は、怒りよりもむしろ、好奇心を誘った。よほど気に食わなかったのだろうが、結局は、この男はルーナを救ったのだ。今、こうしてノクトを救ったように。


素直でないというか、なんというか…


ノクトには、この男の頑固さが、愛らしくさえ映った。


「しぶとい神凪は…もう息絶えるかと思えば、さらにひと月と生き延びた。しかし、真っ当に人らしく動けるようになるには一年は掛かった…だがな。救ったことを後悔するような有様だった」


ルーナ…


ノクトは顔を曇らせる。


「回復が遅かったのもそのせいだろうが…あの者には生きる意志が感じられなかった。もはや神凪の使命も終わり、何の力も持たぬ自分を呪っていた。この護られた土地の中で生きることが、まるで罰のように苦痛を感じているようだった。いつでも苦渋に満ちた顔をして…かつて、外の世界の民を魅了した美しさは、もはや見る影も無かったな」


ノクトの脳裏に、すっかりやつれ、苦悩するルーナの姿がよぎったが…いや、それでもやはりルーナは美しかった。自分だけが安全な土地にいて、たとえこの美しい集落の中でやさしくそよぐ花々を見ても…彼女には苦痛でしかないのだろう。その、悲しいほどの優しさが、ルナフレーナだ…


「体が動くようになると、この土地を出ると言って聞かなかった。谷の外に張り詰める黒い霧を見ても、なおさらだ。だが、無力となったあの者には進めやしなかったのだ…ほんの目と鼻の先で、シガイに食われるだけがオチだった」


クヌギは、苦虫をつぶしたような顔をして、いかにも迷惑を被ったと深いため息をついた。


「ルーナはどこへ行くつもりだったんだ?」


「ふん、わかりきったことを」


ノクトははっとして、そして、辛そうに俯く。


「愚かしいことだ…無力のお主がルシスへ赴いても、何も役に立てない。それどころか…新たな騒ぎを引き起こすだけだ。シガイの王は、神凪が生き延びることを許さないだろうからな。そうはっきり告げて、あの者はようやく自分の無力さを悟った。そして、この土地を出ることを諦めた。だが、そこからが酷い嘆きようだった。自分ひとりだけがのうのうと助かり、お前一人に命運を押し付けたのが、よほど許せなかったのであろうな」


ノクトは苦しそうに顔をゆがめた。しかし、ここで涙を流すべきでないように思えた。


…冷静に、最後まで聞くんだ。どんな事実でも、目をそらさずに受け止める。ルーナの身に起きた、本当のことだ。


「最後は…どうして…」


「人は不思議な生き物よ。生きる意志を失えば、徐々に気力が衰え、そして体も弱る。しかし、私は、あの者の最後の日々はよく知らぬ。愚か者に付き合うほど暇ではない。彼女の最後を世話したのは他の者だ…ノヴィアという女だ」


「…あの家の持ち主だな。やはり、あそこでルーナは最後の日々を過ごしたのか」


「そうだ」


ふん。クヌギは、もうこれ以上、話はない、というように、口をつぐんだ。両腕を組み、威嚇するようにノクトを睨み付けている。ノクトは、気圧されまいと強く見つめ返した。


「その女性はいつ戻るんだ?できれば…彼女から直接話を聞きたい」


クヌギは黙った。その目は、ノクトを試しているかのようだった。ノクトも、受けてたつように目で訴えかける。


ただ話がしたいだけだ…あんたの領域を侵すつもりはない…


心のうちで強く訴えかける。


「いつ戻るかはわからぬ。一月ほど前にここを出て行ったきりだ。私の娘と一緒にな」


「ここを?この忘却の地を、か?」


「そうだ」


そして、クヌギは祭壇のほうを向いてノクトに背を向けた。


「話は終わりだ。他に話すことはない」


クヌギの背中は、はっきりとした拒絶を示していた。


これ以上は無理か…


ノクトは、その背中に向かって深々と頭下げた。


「話を聞かせてくれて、ありがとう…それと、ルナフレーナを保護してくれたこと。婚約者として感謝する」


クヌギの背中は、少しだけ動いたような気がしたが、やはり振り返りはしなかった。ノクトは、さっと身を翻して、扉のほうへ向かった。もう幻想にとらわれることもあるまい…ルーナの気配は、この神殿の中からすっかり消えてしまったままだ。しかし、ノクトの足が速くなる…こらえていた感情が、あふれ出しそうになって焦る。はやく…ルーナの元へ、あの墓の前へ行きたい。

ノクトは涙を堪えながら足早に鏡の間を通り抜け、神殿を出た。

はああああ  外へ出て大きく呼吸をする。クヌギの前では、動揺は見せられないと、気を張っていた。苦しかった…

ノクトは、まっすぐにルーナの墓へ向かう。貴女の辛かった3年…この安全な場所であったからこそ、貴女を苦しめたその日々。ノクトの目から涙がこぼれた。


やっぱり、辛かったんだな…ただ、幸せに、過ごしてほしかったのに。なんで、そんなに…自分を責めて…


ノクトは墓の前にどっかりと腰を下ろした。


「ばかやろう…どうして…」


堪えていた感情が、わっと沸き立って、涙が次から次へとこぼれた。








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