Chapter19.5-アーデンの神殿-

その建物に一歩足を踏み入れたとき、ノクトは自分が泥だらけであることに気がついた。というのも、建物は、一面が白く磨かれた石でできていたのだ。磨かれたその床が、ノクトの一歩ですでに泥で汚れてしまった。

建物の内部は、磨かれた石が両脇にずらっと並び、まるで鏡のように影を映しており、その奥は、祭壇のようなものが見える。中に人の気配はなかった。

神聖な場所らしい…と思ったノクトは、とりあえず、できるだけの泥を入り口ではたき落とし、それから、泥にまみれて救いようのない靴を脱いだ。

冷たい石の感触が、足を伝わってくる。

奥に見える祭壇まで行ってみよう… ノクトは、一歩、一歩、確かめるように進む。

人の気配はないが…しかし、人ではない、何かの気配がする。ここが魔法の源ならば、それも当然なのかもしれない。

忍足で祭壇の方へ進む。磨かれた無数の石に、ノクトの姿が映っていた。無数の自分の影が自分を見る。ひどい有様…全身が泥だらけだ。特に手足が酷い。そして、その目は…ほのかに赤く光っている。


なんだ…?


ノクトは、一番手近になった石に近づいた。四角くくり抜かれたそれは、鏡のように曇りなく、ノクトの姿をそのまま映しこんでいる。この旅を始めて、ますます伸びきった髭と髪…眉毛の奥に光る赤い目…


「まるで、魔法が戻ったみたいじゃないか、ノクト」


馴れ馴れしい声が背後に響いて、ノクトは背筋が凍る。


この声は…まさか!!


振り向き際、背中に手を回し剣を抜く。ノクトは、剣を構えた…後ろに見えるのは、やはり、鏡のように磨かれた石…警戒心をむき出しにしたノクトの姿だけが映っている。


「なにを、怖がっているの?わからないなぁ、この世界はもう、君のものになったんでしょ?」


ふざけるような声が、また、どこからか響く。


ノクトはまた、後ろを振り返る。ちらっと、鏡の端に、黒い影が掠めていったのを見る…左か!!


ノクトは、剣を構えながら、颯爽と左の柱の方へ走る。鏡に映るノクトの像も、同じように走る。しかし、そこに、誰の姿もない。


どこだ… まさか、蘇ったというのか…


ノクトはぎりぎりと歯軋りをした。命を捧げてまで、倒したはずの…あの男。


「アーデン!!!どこにいる!!姿を見せろ!!!」


ノクトは、怒鳴り声を上げた。


「おお、怖い怖い。そんなに、怒らなくたって、ほら、ここにいるよ…」


ノクトは、声のする方を振り向いた。少し離れた鏡の中で…アーデンが笑っている。あの時の、黒いローブをまとったそのままの姿で。


「お前っ!!!」


ノクトは、ものすごい形相で駆け寄った。しかし、剣を振りかざした時、アーデンの姿はさっと消えて、石の鏡には、ノクトの憎しみに満ちた姿だけを映していた。


「君も…変わらないねぇ。一度死んだら、少しは変わるもんだよ?もっとも、オレはどんどん悪い方に変わったけど…」


ノクトはまた、声のほうを振り向く。今度は左手のほうの、部屋の隅にある石に、アーデンの姿がある。ノクトは慎重に剣を構えて、じりじりとそこへ近づいた。


「死ぬたびに憎しみが強くなったね…それが、オレを強くもしたんだ。…皮肉だろ?」


鏡に映るアーデンは、帽子の先を少し指で持ち上げて、ノクトに流し目を送った。


こいつ…馬鹿にしているのか…


ノクトの中にどうしようもない怒りと憎悪が沸き起こっていた。何度でも、何度でも葬り去ってやる…


「おお、怖い怖い。ちょっと、その顔、自分でよく見てみたら?」


アーデンはまた、おどけるように言った。


「何を!!!」


ノクトはまた、剣を振りかざし、アーデンの姿に襲い掛かった。しかし、直前にどうしてもその姿が消える…代わりに、目の前に見えたのは、恐ろしい形相をした自分の顔…。ノクトは、石にあたるぎりぎりで剣を止めた。


「この間オレを殺したときさ、もうちょっと穏やかな顔してたよ。どうしちゃったのかなぁ、ノクト?もしかして、ルーナが見つからなくてイライラしてるの?それ、八つ当たりじゃない?」


ふふふふふふふ。 その笑い声が、ノクトの神経を逆なでする。


ノクトは、また、赤い目で声のするほうを睨み付ける。左だ…あの、一際大きい鏡の中に映っている…


「ルナフレーナ様は、もう、死んじゃったよ。かわいそうに…君は、彼女の影を探して彷徨うために戻ってきたのかな…哀れだね」


アーデンは笑みを浮かべながら、その帽子を取って、深々と礼をした…


うおおおおおおおおおおおお!!! 


ノクトは大きな声をあげながら、その姿に突進していた。レギスの剣を大きく振りかぶる。アーデンの姿は、今度はノクトを待つかのようにその場を動かない。顔には、不敵な笑みが浮かんでいる…

「やめろ!!」


と大きな声がして、アーデンの姿の寸前で、ノクトの前に槍が立ちはだかった。白く磨かれた細いランスは、ノクトの剣を力強く跳ね除けた。


かーーーん!! と派手な音を立てて、剣が背後に飛ばされていった。ノクト自身も衝撃で、後ろに吹き飛ぶ。吹き飛びながら、鏡に映ったアーデンが、期待はずれだという顔で首を振って、そして、すっと消えていくのが見えた。


「…危ないところだった」


人の気配は二人あって、もう一人が、ほっとため息がついているのが聞こえた。ノクトは、声の方を見る。薄汚れた白いローブをまとった二人の男が立っていた。一人は、白い髭を長々と伸ばしていて、そのせいで老けて見えるが…50歳くらいだろうか。銀色の髪も、髭と同じように長く伸ばし、後ろで止めている。ノクトの剣を止めたのは、彼のランスだ。威厳からして…ここの主だろう。


その背後に、遠慮がちに立っているのは、それよりも若い男。茶色の髪は短く切ってあるが、顎鬚がもみ上げまで伸びていて、唇は髭の中に隠れている。


「浅はかな男だ…かろうじて生きて霧を抜けたと思ったら、ここで自分の影に刃を向けて命を落とすところだった」


白髭の男は、はき捨てるように言った。


「あんたが…神主か」


ノクトは、まだ怒りが収まらない様子で、体を起こす。


「なぜ、邪魔をした。あの男は…」


「あの男は、お前の心を映した影だ。憎しみと恐怖に満ちたお前の心が見せた虚像…刺し殺せば、お前自身を殺す」


ノクトは、はっとして、改めて無数の石を眺める。どこか遠くのほうで、ふざけているような鼻歌が聞こえる… あれが、虚像?


「自分の愚かさがわかったか、ノクティス・ルシス・チュラム」


「クヌギ…」


もう一人の男が、神主の言い過ぎを咎めるように、しかし、遠慮がちに呟く。


「あんたは…?」


と、ノクトはもう一人の男の方を向いた。


「もしかして、ユハか?」

「…ああ。やはり、私を追ってきたんだな」


ふん、とクヌギと呼ばれた神主は、鼻を鳴らした。


「オルティシエの隠れ里が、この男に肩入れしたのだろう…外の世界の者たちは、ルシスと神凪に感化されている。お前同様にな。…私は忠告したはずだぞ」


と、ユハのほうを睨み付ける。ユハは恐縮して肩をすくめた。


なかなか気難しい男のようだ…ノクトは、神主の怖い顔を見て思う。だが、引けるかよ。ノクトも、気圧されまいと威勢を張った。


「ユハ、教えてくれ!ルーナはいまどこに?!」


クヌギは、ユハを遮るように、ノクトの前に立ちはだかった。


「お前はここが何かわかっているのか? 許可もなく足を踏み入れ、聖域を汚し、その無礼を詫びる気もないらしいな」


ノクトはクヌギの厳しい目を、睨み返した。


礼を尽くさねば協力はしないということか…


ノクトは、軽く目を伏せ

「非礼は詫びる」

と、素直に応じた。


「…禁じられた山に無断で押し入り、あなた方の聖域を汚した…それは申し訳ないと思う。 ここは、いったい何だ? あなた方の信仰の場とは思うが」


ふん。クヌギは、腕組みをし、ノクトを見下ろした。

「…ついてくるがいい。まさか、ルシスの血の者を案内することになるとは思わなかったが」


そして、祭壇の方へ歩き出した。ノクトは黙って、クヌギの後に続いた。見たところ、ただ広いところに、無数の石の鏡があり、あとは奥に祭壇あるだけだ。高い天井は、白い石が嵌め込まれているだけで、照明もない。内部が明るいのは…この建物を作る石そのものが、ぼんやりと光っているせいだ。


祭壇まではかなりの奥行きがある。クヌギとユハは、やわらかい布の靴を履いており、足音もほとんど立たなかったが、ノクトの素足がぺたぺたと音を立てて、神殿の内部に響いている。その足音に被せるように、遠くの方で、時々笑い声が聞こえる…オレの心のうちに、アーデンがいるのか。ノクトは納得がいかない。なぜ、ルーナじゃないんだ。


やがて、祭壇が見えてきた…近づくと、その中央に巨大な石像が見えた。遠くからでは、その白い石像が、後ろの壁の色と区別がつかなかったが、近づいてみるとはっきりと人の姿をしている。古代の衣服だろうか。長いローブを重ねて着ており、ローブからのぞく足元は、皮ひもで編みこんだサンダルを履いていた。手には王笏を掲げている。しかしその頭に王冠らしきものはない…その穏やかな顔は…まるで別人のようだが、しかし、確かに、あの男だ。


「アーデン…」

「そう、アーデン・ルシス・チュラム。数百年にわたり、名を伏せ、この地で祭ってきた神だ。しかし、お前の心のうちに巣くう悪魔とは異なる」


ノクトは首を振って


「あんたらには悪いが…オレは、つい数ヶ月前にこの男と対峙し、闘い…そして倒してきた。あの時見た男は、憎しみと復讐に燃える悪魔そのものだった」

「そうだろう。しかし、それはこの神の本質ではない。…アーデンは闇に落ちた。そして、お前の前に倒れることは、受けるべき運命として予言されていた。我々は、数百年の間、神が我々の過ちを赦し、そしてまた、闇に落ちた神自身も赦されるよう、祈り続けてきただけだ」


赦し、赦される…

ノクトは石像を見上げた。その顔は慈愛に満ちて、穏やかに微笑んでいる。すべてのものを包容し、赦すかのように。あの男も、かつて、このようであったのだろうか…。

「我々の罪と言ったな。あいつが言ってたが…本当なのか。大昔、やつが人々の病を癒したとは…」
「古い伝承によれば、そうだ」

クヌギは、石像の右脇の方へ進む。ノクトも後に続いた。そこには、遥か天井まで、びっしりと壁画が描かれていた。しかし、あまりに古く、あちこちが欠け落ち、そして、色も黒ずんでいた。ところどころに、古代の文字らしきもののも刻まれている。


「この神殿には、たくさんの伝承が残されている。ルシス王家にも様々な伝承が残されていたと思うが…それとは、内容が異なる。いわば同じ歴史を違う角度から見ている。六神も、初代ルシス王も、アーデン・ルシス・チュラムも、な。我々の伝承の中では、アーデン・ルシス・チュラムは、ルシス王家の血族で唯一、恐ろしい病にも怯まず、自ら人々の元を訪れ、そして病から人々を救った慈愛深き人物だ。そして、不幸なことに、その魔力と民の信望のために妬まれ、迫害された」


また、歴史の闇に葬るつもりか…


アーデンの最期の言葉が思い出された。

「その時代、魔力をもつルシスの血族が、世界のあちこちに分散してそれぞれの小さな領地を支配していた。アーデン・ルシス・チュラムは、一地方の領主に過ぎなかった。一方、より強大な力をもって国を統一しようとした者がいる。後に初代ルシス王となる人物…ドミナ・ルシス・チュラム。彼は、強大な帝国をつくることを夢見ていた。いつの時代にもそういう野望を抱くものがいる…彼はアーデン・ルシス・チュラムの、ひときわ、強い魔力に恐れを抱いき、そして妬んだ。しかし、妬みは、ルシス王家だけではない、人々を支配し、見下していた神獣たちも同様だ」

「まさか、ルシス王家と、六神が結託してアーデンを迫害したと?」

ノクトは驚いて声を上げる。
クヌギが、あからさまにため息をついて、軽蔑の表情を浮かべる。


「いいか、私はただ、我々の伝承を話しているだけだ。1000年前に起きたことの何が真実か、我々には知る術もない。私も、盲目的にこの伝承を信じているわけではない。伝承は、それぞれに、語り部が都合の良い解釈を与えているだけだ。しかし、全てが作り話というわけでもない。物語には、必ず、僅かでも真実を含むものだ。ただ、黙って聞け」


「わかったよ…」


ノクトはそう言いつつも、納得はいかなかった。六神たち、そしてアーデンとの接触が記憶に新しいノクトにとっては、にわかに信じがたい。あの六神たちが邪悪で…アーデンがそうではなかったとは。だが…今は、黙って最後まで聞くしかなさそうだ。


「ルシスの血族の中で起きたのは、単なるありふれた権力闘争だ。しかし…そこに神獣が介入することで事態は大きく変わった。神獣は、人間とは異なる心、異なる真理を持つ。彼らが如何にしてお前の一族に肩入れしたかは、測りようがない。1000年も後になって、それが正義かどうかを問うても意味はない。たが、事実として神獣たちはお前たち一族についた。血の契約を交わしてな。」

「血の契約…?」

「知っているだろう。ルシス王は、代々その命を削って、魔法を用いてきた。強大な力を得る代償として、己の命を差し出した。おかげでルシスの民は、自分の命運は王に授け、ただ平和をむさぼる愚か者と化した」


クヌギは、遠慮なく蔑むような目でノクトを見た。ノクトは、むっとしてその目を見返した。


「…そして、来るべき最期の戦いには、子孫の命を差し出すという契約を結んだ。我々の伝承の中では、これを ”血の契約”、そして、ルシス王家を”呪われた一族”と呼んでいる」


ユハは、申し訳なそうな表情でノクトをチラチラと盗み見ている。人の良さそうな…だからこそ、自分の主人にも強く出られず顔色を伺う…そんな風に見える。

呪われた一族か…

ノクトは、ふふふ と、自虐的に笑って
「違いねえわ」
と、強がりを言う。


「…だが、ルシスの市民が愚かかどうか…あんたも、その目で見てきたらいいさ」


ノクトは不敵な笑みを返して見せた。


「闇のこの10年…あいつらがどうやって生きてきたか…この里みたいな魔力も何もないところでな。それは、アコルドでも同じだ…正直、オレは驚かされた。ルシスの魔力なんて、実際、屁みたいなもんだな」


「なるほど」


クヌギは、動じずに返す。


「この10年、運よく生き延びたものたちは力があったのだろう…そして、失われたのはどれほどの命だ?」


ノクトは、痛いところを突かれて、ぐっと黙る。クヌギは、その様子を見て、勝ち誇ったように、また、ふん、と鼻を鳴らしていた。


「この里は、古の力に守られた…この10年は、その前の10年と変わりはない。数百年隠されていたからこそ、守られた土地だ」


ノクトは、少し悔しそうに顔をゆがめながら、

「そうすると、あんたらは、アーデンの一族の末裔か? あんたらにも魔力があるのだろう?」

と、続ける。クヌギはすぐに首を振る。


「我々の血族も僅かだが魔力を持つ…しかし、残念ながら血筋は違う。アーデン・ルシス・チュラムの一族は、迫害によって根絶やしにされたからな」

あ… ノクトは息を飲む。

その時、突然、ノクトは背後に大勢の人の気配を感じて振り向いた。無数の石の鏡に…無数の人間の姿が映っている。服装は…古代の人のそれだろうか。男も女も、こどももいる。みな無表情に押し黙って祭壇の方をまっすぐに見ている。

なんだ…あれは…?

しかし、ユハも、クヌギも気がついてはいないようだ。

自分にしか見えないのか?

急に人々が悲鳴をあげた。人々は逃げ惑い…女は嘆きながら子どもを抱いた。怒号とともに走り抜けるチャリオット…その先には、人々を切り裂くための無数の刃が取り付けられている。戦士が振り上げた斧が、次々と首をはねる…あちこちから噴水のような血しぶきがあがる…


うっ… まるでその血の匂いまでもが漂ってきそうだった。ノクトは顔を背けた。


ユハが、ノクトの様子を不思議そうに見ていた。


「どうかしたか」


クヌギが、話の邪魔をするな、というように、いらいらして聞く。


「いや…なんでもない」


これは虚像なのだ…自分の中にある。しかし、アーデンならまだしも、なぜ、見たこともない数百年前の者たちが…

ノクトはまた、クヌギのほうを向き直りながら、しかし、背後の気配が気になって仕方がなかった。

クヌギは気を取り直して話を続けた。


「我らが一族は、ルシス王家と繋がる血脈だが、はるか昔に権力から離れている。アーデン・ルシス・チュラムの一族が迫害された時、我々は中立を保った…よく言えば、だ。つまり、時のルシス王家にも味方しなかった代わりに、彼の一族を見殺しにしたことになる」


クヌギは躊躇うことなく言い切る。

頑固で扱いにくい男だが、筋は通すみたいだな…  

背後の悲鳴は消えていた…静寂に変わる。しかし、ちらりと見やれば、今度見えているのは…遺体を荷台に積み上げる人々。


「この神殿は、いわば贖罪だ。我々の祖先はルシスの名前を捨てて、打ち捨てられた土地に移り住んだ。伝承では、迫害されたものたちの遺体を運び入れてここに弔った…しかし、アーデン・ルシス・チュラムの遺体は手に入らなかった。あるいは、ここで弔うことができれば、闇に引き入れられることもなかったと言うものもある…が、さあ、どうだかな」

そこで、背後に感じていた大勢の人の気配は消えた。


クヌギは突然、姿勢を正して、祭壇に向き合うと、目を閉じて深々と礼をし、手を合わせて何事かを祈った。それは古の言葉のようで、ノクトには理解できなかった。しかし、今目にした虚像があまりにもなまなましく、ノクトの胸のうちにも弔う気持ちが沸き起こっていた。ノクトは、クヌギの言葉に合わせるように、静かに眼を閉じて、祈った。

もし、本当に苦しい迫害にあった者がいるなら…静かに眠れ。お前たちの主人も、ようやく眠れたぞ…

気のせいかもしれないが、ノクトの背後に、何か暖かい気配を感じていた。

ルーナのこともあるが…オレはここに、来なくてはいけなかったんだな。アーデン…少しは、お前の気も済んだか?

クヌギは、祈りを終えて、しばし、静かにノクトの様子を見ていた。クヌギの祈りが終わっても、ノクトはしばらく目を閉じたままだった。先ほどまで、不信感、恐怖、不安、焦燥にまみれていた愚かな男は、今はとても静かに見える。恐れ多くも、ここに眠る無数の御霊を、その小さな心で慰めようとしているようだ。

身の程知らずめ。クヌギは苦々しく思う。

ノクトはようやく顔を上げて、クヌギを見た。


「しばらく、そこの石を見ていてもいいか?」


クヌギは、押し黙る。


「もう、虚像に惑わされることもないだろ。ちょっと、見てみたいんだ。オレの中にあいつがいるっていうんだったら…その影をしっかりな」


ふん

と鼻息を漏らして、何も言わず祭壇の方へ向いた。勝手にしろというのだろう。

ノクトは苦笑して、そして、一番手近な鏡のほうへ近づいていった。

そこには、先ほどと違って穏やかな自分の姿が映っていた。目は…もう、赤く光ってはいない。そう、それでいい、とノクトは思う。


「アーデン…そこにいるんだろ」


鏡に向かって囁く。鏡はしばらく、静かにノクトを映しているだけだったが…その気配を感じる、とノクトが思ったとき、ゆっくりと影がゆがんで、そこに、アーデン・ルシス・チュラムの姿が現れた。


彼は無表情のまま、ノクトの目を見つめ返していた。ノクトも、何も言わずにその目を見つめ返していた。


「あんたの一族の苦しみを見たよ…」


アーデンの表情が少しだけ緩んだ。


「だめだよ、ノクト」

彼は言った。


「オレを呼び出したいんだったら、もっと憎まなきゃ…そんなやさしい気持ちでは、オレを呼び出せない」


そして、ふっと笑うと、その姿は消えた。


遠くの方から笑い声が聞こえる。消えたんじゃないぜ…? いつでも、お前の中にいる…気をつけなよ、真の王。


ノクトは振り向いてその姿を探そうとしたが、しかし、もう気配はなかった。


オレの中にいるか…


アーデンと戦っていたとき、自分の中に激しく沸き立つ感情…あまりに激しい憎悪で、自分がその憎悪に飲み込まれるように感じたのを思い出した。あの時、やつと戦いながら、自分が自分でなく…まるで、アーデンそのものであるような感覚さえあった。


やつの憎悪が特別なんじゃない…同じものはオレのなかにもあるんだろう。

ノクトは、胸を押さえた。


祭壇のほうを振り向くと、クヌギは祭壇のろうそくを替えたり、汚れをふき取ったりと忙しそうに働いていた。一応、お礼を述べようと思って背後から近づいたのだが、気配に気がついたクヌギは、振り向きもせずに


「もう、用がないなら出て行け。そして、二度とここへは足を踏み入れるな」

と言い放った。


お礼を述べる隙もないな…

ノクトは苦笑する。

そして、その時ようやく、ユハの姿がないことに気がついた。ノクトは慌ててクヌギに声をかけようかと思ったが…クヌギはおもむろに再び、祈り始め、その祈りの姿は鬼気迫るものがあった。いま、邪魔をすればただではすまないだろう。まだ、遠くへは行っていないはずだ。


ありがとな…


心のうちで礼を述べて、ノクトは神殿の入り口へと戻った。無数の石に、小走りに進むノクトの姿が映る。そういえば、ルーナの姿を映すことはできないのか…ノクトはふと、足を止めたが、すぐに思い直して歩き出した。

やめておこう。欲しいのは虚像ではない…

神殿の入り口で泥だらけの靴を拾い上げ、外に出て、ノクトは驚いた。先ほど見た霧はどこにもない。よく晴れた空から、日差しが差し込んでいる。このあたりは、アラネアが夢に見たとおり…見通しのよい、開かれた場所だった。ここだけこんもりと盛り上がって、気持ちのよい緑の芝が広がっている。アラネアが、丘だと表現したのも分かる。ここからは、ふもとの集落が良く見渡せた。日の傾きからすると、夕暮れか…向かい合う向こうの山の頂から、熟れた赤い太陽がのぞいている。谷間の集落はもう、暗くなり始めていた。


ユハは…どこだ?


ノクトは丘を見渡す。この神殿以外に、建物は見えないが…神主たちは村には降りずに生活しているはずだ。この辺りに住居があるに違いない。たぶん、そこに、ルーナが…


ノクトは、住居を探して、神殿の周りをぐるっと回った。そばに、古い遺跡の残骸らしき白い石の柱が、いくつか点在しているのが見えた。その先の森のはずれにも、何か岩らしきものが出ていた。住居はどっちだ… 誘われるように森の方へ向かう。集落とは逆の斜面が怪しい…あの森を越えたところに、何か見えはしないか?


森の入り口にあるのは、墓のようだ。古い墓石が並んでいる。先ほどの話の、迫害されたものたちの墓か…?それにしては、新しいような気がする。なにせ数百年もの前の話だ。おそらく、この墓は、歴代の神主の一族のものだろう。苔むして傾いているものもあるが、まだ、新しく磨かれているものもある。


墓の先に、下る階段が見えた。あの先に、神主たちの居住地域があるのかもしれない… ノクトは、いよいよルーナに近づく期待で、胸が高鳴るのを感じた。どうしても、進む足が先を急ぐ… 古い墓石に躓きながら、墓地を抜けようとする。


墓地のはずれ、階段の手前に新しい墓石が見えた。そこだけ、花が供えてあった。花はもう、枯れていたが、しかし、数週間以内に供えられたものだろう。風化せずにその形を残している。他の墓は周囲に草も生え、ほったらかしのように見えるが、その墓だけが石も綺麗にしてあった。

最近、亡くなった者だろうか…

ノクトは、その横を通り過ぎながら、何気なしにその墓の銘を見た。

墓石に刻まれた名前はー


Lunafrena Nox Fleuret





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