Chapter19.4-無謀-

クブニと家路を行く。途中途中で、子どもたちが道をそれて、手を振りながら、自分たちの家へと帰っていく。

「ノクト…どうだったの?あのおじいさんとの話…」

「ああ…」

ノクトは意味ありげに微笑んだ。

「なんにも収穫なしだ」

え… とプロンプトは驚いて

「なんで、そんなに機嫌がいいの?」

と、眉間にしわを寄せて、ノクトの顔を覗き込む。よほど、不思議らしい。

「べつに」

ノクトは笑って返した。

なんでかな…

ノクトは自分でもわからない。この旅で何度も焦りを感じたが、その旅に何かに導かれてここまで来た。ここは…間違いなくルーナに繋がっている。

ノクトは不思議な安堵感に包まれていた。

少し先をアラネアと歩いてたクブニが、家が見えてくると一目散に駆け出して、家の中に入った。しかし、間もなくして家の者たちと外にぞろぞろでてくる…

なんだ?

どうやら一家そろって出かける様子だ。

「ええと…」

プロンプトがどう声をかけるものかと躊躇っていた。

「ああ、いいとこにきたよ!ノクトさんたち!」

と、気のいい顔をして、主人が声をかけてきた。

「これから寄り合いに行くんだよ。あなたちの歓迎でさぁ、みんな集まるよ。さあ、行こう行こう」

返事を待たずに、ノクトたちの肩を抱いて、寄り合いとやらの方へ歩く。

風呂… とノクトは思ったが、仕方がない。どうやらノクトたちの歓迎会をしてくれるようだし、むげに断ることもできまい。そうこうするうちに、一度家に帰った先ほどのこどもたちが、今度は各々家族を連れて集まってきた。一行はあっという間に賑やかな行列になって、集落の中心部へと向かう。夕暮れ、陽が落ちたらどうするんだろう…と思っていたら、道端に、昼間はただの石だと思っていた石の標が、ぼおぉっと光りだして夜道を照らした。

ノクトたちは、目を見張ってその光る石を見つめた。

どういう仕組みだ?…魔法なのか?

アラネアは、喜んで光る石のところに飛んでいき、おおお、光ってる!!といっては、手でぱしぱしと叩いて見せた。村人たちは特に気にした様子はない…すぐに壊れるものではないらしい。

道が光のためにはっきりとして、点々と続くのが見えた。その先に寄り合いと呼ばれる大きな建物がある。民家と同じように茅葺だが、かなり大きい。そして、ついてみると、家に入りきれない人が、すでに庭先に沢山たむろしていた。

もう、飲んだり食ったりは始まっているようだった。外に用意されたテーブルに、人が群がって食べ物をもらっていた。その辺の地面にござを敷いて、気分よく酒を飲んでいるものもいる。

「ノクトさん、プロンプトさん。あんたら主役だし、ほら、こっちこっち」

と、シシヤは嬉しそうに手招きして、母屋の方へ誘導した。

昼間、裏がありそうと思ったことが、なんだか申し訳ないような歓迎振りだった。ノクトたちのホストとなったシシヤは、客人を連れたことがよほど誇らしげに見えた。

母屋は、縁側に向いた襖がすべて開かれており、中で大宴会の準備が進んでいた。お膳が広間に並べられ、ほとんどの客は席についており、ノクトたちの登場を待っていた。

上座と思われる、床の間のある方の席に通されて、ノクトとプロンプトは、やや気圧されながら主賓用のお膳の前に座る。

「やあ、おでましたなぁ」

恰幅の良い男が、もう、かなり飲んで酔っ払っているのだろう。赤ら顔をにこにこさせて、一同に声をかける。

「ひさしい、異国の客人ですぞ。ほら、みなさん」

「ようこそ、オルブビネへ!」

「つまらん集落ですがのぉ」

「なんのなんの。酒と米がうまいて」

居合わせたものたちはもういい気分になっていて、思い思いに勝手なことを口走っていた。

「ささ、ノクトさんもプロンプトさんも」

シシヤがノクトたちの杯に酒を注ぐ。

アラネアは、こどもたちと一緒に表の方へ行ってしまった。母屋は、主だった大人たちが集う場所と決められているらしい。

「え、えええと、あ、どうも。」

勢いの飲まれて、プロンプトは注がれた杯を、一気に仰ぐ。あっという間に顔が赤くなった。ノクトは、やや警戒して、少しだけ酒をなめてみた…

うまいな。飲みやすい…

すっと、解けるように喉に流れる。アルコール臭さはあまり感じられない。しかし、プロンプトの顔を見る限り、度数は結構ありそうだ…

こいつら、つぶす気じゃないだろうな…

ノクトはまだ、警戒心を解かずにいたが…しかし、進められるままちびちびと口に含めば、酔いが回るのはあっという間だった。

「やー、そんなたいそうなことないですよぉおお!」

プロンプトはもう、気分よく酔っているように見えた。

「なんの、いい男だってあんた!うちの娘はどうだね?なかなか別嬪よ!」

といって、恰幅のいい男は、料理を運んできた若い娘の手を引いて、プロンプトの前に差し出した。娘は、まだ、20前にみえる。初々しい顔を、恥ずかしそう赤らめて、にっこりとプロンプトに笑った。

プロンプトは顔を真っ赤にして、娘にお酌されていた。

「ノノカと言います」

娘はまんざらでもないように、名前を名乗る。

「え、の、ノノカちゃん?!」

プロンプトはどぎまぎしていた。

若さに似合わず、肉感的な体つきをしていた。

こういうところは…開放的な文化かもしれねぇな…

ノクトは、にやにや笑いながらプロンプトを見やる。プロンプトは嬉しい反面困ったような顔をして、助けを求めるようにノクトを見る。

いいじゃないか

というように、ノクトは首をすくめて見せた。

「の、ノクトもいい男でしょうぉ?!」

プロンプトは、巻き添えにするつもりらしい。

「そうさねぇ、こっちは威厳があって、なかなか渋いでねぇの?な?姉さん女房なんて、どうよの?」

おーい、サヨイ。と呼びつけられてやってきたのは、落ち着いた雰囲気の女性だった。酔っ払いを軽くいなすように、恰幅のいい男をあしらいながら、お愛想程度にノクトの横に座った。

「まあまあ、適当にあしらってくれな。タタジは酒癖が悪いから」

タタジとはその男の名前だろう。それから、男の方を見ながら、あんまりそそうすると、カカナを呼ぶよ! と脅しつけるように言った。

「へん、女房が怖くて酒が飲めるかよ!」

と、タタジは悪態をついた。

それからサヨイは、にこっと笑って、ノクトに酒を注いでくれた。…どきっとするような色気を感じて、ノクトは少しくらくらした。

やべえ… やべぇってこういうことか。

酒のせいだとは思うが、心臓が早くなる。それに、…サヨイからいい匂いがする。

「ノクトくんわああああ、童貞でえええす!!!」

突然、プロンプトが叫ぶ。

ええ、うそお?! きゃああ と若い娘たちの喜ぶ声が聞こえる。

あのやろぉ…

ノクトはギロっとプロンプトを見るが…だめだ。もうプロンプトの目は、目の前に群がった若い娘たちしか見ていない。

「いいじゃないのさ。女を抱けば偉くなるとでも思ってんのかい?」

サヨイは怒ったように、プロンプトの回りの若い娘たちにぴしゃっと言い返した。

「余程の女じゃなきゃ、ノクトさんは抱く気にならないんだよ。あんたら尻の青いのはお黙り」

プロンプトも一緒になって怒られた気がして、しゅん、となっていた。

「もったいないねぇ…あんたの年頃に、女を抱く喜びをまだ知らないとは…」

タタジはしつこく食い下がる。

「あんたほどの男が…もしや、男の方が好みかい?」

「もう、失礼はおよしよ!」

サヨイはぴしゃり、とその鼻面を叩く。あてててて…

「婚約者がいるんだ」

ノクトは、めんどくさそうに、言った。これで、娘たちに気を使う必要も無くなるだろう…

「まあ、婚約者。その方は、お幸せね」

「…ずっと、探している。この10年…死んだといわれていた」

騒がしい広間の中で、ノクトのそばにいた数人だけが、押し黙った。タタジは、赤ら顔のままだが、うつむいた。サヨイは、はっとして、真剣な眼差しでノクトを見ていた。

「生きてらっしゃるの…」

「オレは、そう信じている。だから、ここまで来た」

「ルーナだよ」

と、付け加えたのは、アラネアだ。いつの間にか、縁側から半分体を広間に投げ出して、大人たちの間からノクトを見上げていた。

「ノクトは、ルーナを迎えにきたんだよ」

アラネアの大きな声が、騒がしい広間にもよく響いて、広間の半分は、静かになった。

「そうです、ルナフレーナ様です」

プロンプトが、ろれつの回らない舌で、付け加える。

「ああ、高貴なルーナ様にこんな、軽い男!!って…思うかも知れませんけど!でも!王である前に一人の男として…みんなに白い目で見られても、国を出てルーナ様を探しにきたんです!…いいじゃん、ノクトは世界を救ったんだから!もうそれでいいんだよ!!ルーナ様に会わせてあげてよおお!!!」

えええええん!!!

とプロンプトは泣き出した…

頭いてぇ…もう、勝手にしてくれ…

居た堪れなくなって、ノクトは立ち上がった。

「ああ、えーと。オレ、先に帰って寝るわ」

広間の一同が固唾を飲んで見守る中、ノクトは縁側から外へでた。えんえんと泣きつづけるプロンプトの声と、それを慰める若い娘たちの声が最後に聞こえた。

アラネアはノクトの横についてきた。

「帰るのか?」

「ああ、寝るわ。お前、別に遊んでていんだぞ。明日もすることもねえしな」

そうか! と言って、アラネアは嬉しそうにどこかへ走っていった。

騒がしい庭を横切って、明かりを頼りに道に出る。

どっちだったっけな…

同じ明かりが点々と灯る道。とっぷりと暮れた黒々とした森が、満月に照らされているが、しかし、どちらも似た風景に見えて方向がわからない。今夜泊めてもらうはずの、クブニの家はどっちだったか…

まあ、いいや。小さい集落だ。ふらふら歩いて酔いがさめてから探せばいい…

ノクトは、道を右に折れた。静かな道に、光が等間隔で浮かび上がる美しい景色を、眺めながらゆっくりと歩く。みな、寄り合いで騒いでいるのか、辺りは本当に静かだ。

風が、通り抜ける。ほてった体に、心地よい。

月は、ちょうど道の先に見えている。ルーナといえば、太陽というよりは月だ。その静かな光に、照らされていたいと思う。ノクトは誘われるように、月の方へ歩いていった。その、木の陰に、あるいは、民家の軒先に…ルーナが待っているような気がして、ノクトは目を凝らさずにいられなかった。

確かに…ここにいたはずなんだ…なぜか、そう感じる。ルーナの、匂いと体温…

その時、ノクトは、さっきかいだサヨイの匂いを思い出して、言い訳するように首を振った。

くそっ… 

それから、また、余計な考えを打ち消すように月を見つめる。

歩き続けて、いつの間にか、集落の外れまで来ていたらしい。道の脇の明かりが途絶えて、民家も背後に遠くの方でその光が見える。

どうやら道を間違えたな…

そしてもう一度月を見る。月に、少しだけ白いもやが掛かっていた。

霧がでてきたか…

はっ として、ノクトは、辺りを見渡した。左手に、高い山の陰が見えた。月明かりに照らされていたが、山の中腹から霧に隠れていた。霧の中から、わずかに…光も見える。点々と続く、参道のようなものか。そして、その先に、建物らしき光…

御山…

ノクトは息を呑む。

ノクトは思わず、暗い森の方へ足を踏み入れていた。すぐに、参道の入り口のような、石の階段が見えてきた。両脇には、集落の道沿いにあるのよりも、さらに一回り大きい光る石が、並んでいた。

霧で迷うといっていたが…この階段を上るだけなら、迷いようがないな。あの爺さんが言っていたのとは違う場所なんだろうか。

ノクトは階段の入り口で、しばし躊躇った。しかし、月の明かりは、十分に、この階段まで届くように見えた。

酔いは…醒めたな?

ノクトは自分に言い聞かせる。そして、階段に踏み出した。

その時、ぶあああっ と強い風のようなものが吹き抜けた。と、同時に、両脇の石の標の明かりが、ろうそくの火がきえるがごとく消えた。

なんだ?風と言うより、圧力…何かの念のようなものを感じたぞ…

ノクトは、はっとして、辺りを見る。そこはもう、野外ではなかった。暗闇の中で見慣れない天井を見上げていた…。ノクトは、布団の中に入っていた。そして、隣で大きないびきをかいて眠っているプロンプトの姿が見えた…

クブニの家か?

起きて確かめようとしたとき、強烈な眠気がノクトを襲う…これも、魔法なのか。

体がみるみる重くなって、ノクトは抗うことができずに目を閉じた。


ープロンプト?ノクト?

ーあーちゃん、寝かしてあげんね。昨日はぎょーさん飲んだから


隣の部屋にで人が動き回る音が聞こえる。

頭がいてぇ…それに、酒くせぇ。

この酒臭さは自分ではないだろう、とノクトは、思う。尋常ではないいびきがすぐそばから聞こえてくる。

くそ、プロンプトだな…酒に飲まれやがって…

しかし、自分も気持ち悪さを感じて、なかなか起き上がる気になれない。

おかしいな…ちょっと嘗めた程度だったのに。あの酒、なんか変なものが入ってるんじゃないだろうな?

それから、闇夜の中で見た月のことを思い出した。

満月…綺麗だったな…

月を眺めながらルーナのことを考えていたんだっけ…

はっ として、ノクトは、目を開いた。天井に、裸電球が見える

そうだ、昨日…御山の入り口まで行ったんだ。その階段に足を踏み入れた途端…

ノクトは体を起こして辺りを見る。案の定、プロンプトが隣の布団に、酷いいびきをかきながら寝ている。普段いびきをかかないだけに、昨夜の酒の回り具合がいかに酷いかわかる。


「おい、プロンプト…」


押さえた声で呼びかけるが…無駄だろう。プロンプトはびくともしない。

ノクトも、胸の気持ち悪さを感じて、水が欲しいと思った。ゆっくりと立ち上がって、広間の方へ続く襖をあける。縁側で日向ぼっこをしながらお茶を飲んでいたばあ様が振り返った。


「起きたかね」

「ああ…そのお茶、もらえるか?」

「ほれ」


と言って、ばあ様は、盆に載せて伏せてあった湯飲みをひっくり返し、熱いお茶を注いでくれた。ノクトはばあ様の向いのざぶとんに座って、お茶をすすった。弱った胃に染み入るようだった。

家は、プロンプトの豪快ないびき以外は静かで、家のものはみんな、畑仕事にでもでているのだろう。


「飯だったら、土間に、布かけておいてあるわ。食いたきゃ食いね」

「ああ…」


と言いつつ、しばらくは何も食べたくない気分だった。昼ごろにでももらおう。


「ばあさん、あんた、昨日はいつ帰った?」

「ああん?あんたら、若いもんは遅くまでいたろ。オレは随分先に帰ったぞ」

「オレは…他の連中より早く寄り合いを出たんだが…いつ家に着いたかわかるか?覚えてないんだ…」

「さぁな。オレも自分の部屋で寝てたからなぁ」


ノクトは、昨日見た景色が夢だったのだろうか、とも思った。しかし、階段に踏み出したときに感じたのは…あれは、間違いなく何かの力だ。しかし、村人に聞くだけ無駄だろう。


「随分飲んで迷惑をかけたんだろう。わるかったな」

「気にすんな。酒をあびて酔いつぶれるのも、わけえもんの特権だ。あんたら外のもんは、だいたい酒に弱いさね」

「ははは。ここの連中は随分、酒に強いんだな」

と返しながら、少なくとも外の連中が来るのは初めてじゃないんだな…と、ノクトは思う。


「そりゃあ、よお、動くからよ。あんたら、頭ばっかつかっちょ、酒に弱くなるもんだ」

「マジか?オレは、頭を使うのは、得意じゃないんだがな…」


んんんん 老婆は認められないというように頭を振る。


「まだまだ足りんわ。こんな細っこ腕して」


細いか…細いなりに筋肉ついていると思ってたんだがな。しかし、この村の男たちの腕を見ると、確かに、昨夜隣で飲んでいた恰幅のいい親父でさえ、腕の筋肉はノクトよりも立派だった。


「そんじゃ、畑でも手伝うか」

「そりゃ、いい!やりゃ、やりゃ!」


ばあ様は、乗り気で、畑の方に手を振る。

やれやれ…午後は農作業だな。

ノクトは、苦笑いしながら、腹をくくった。郷に入っては郷に従え… まずは、村へ力を尽くすか。ただ飯くらいの客人ではいられないだろう。

ぼちぼちプロンプトを起こすか…

ノクトは昨夜の復讐も兼ねて、プロンプトが根を上げるまで畑で動こうと思った。

昼ごろに家の者たちが戻ってきた。ノクトは昨夜先に失礼したことを詫びたが、家のものは皆笑顔で、何も気にした様子はなかった。

それから、遠慮なくプロンプトを叩き起こす。


「おい!起きろ!ただ飯喰い!」


プロンプトは、驚いて、体を起こす。


「え、え、今、何時?!」

「ばーか。もう昼飯時だ。どんだけ飲んだんだ、お前」

「え、えーーー…覚えてない…」


ノクトも、ついさっきまでグロッキーだったとは言わずに、あたかも朝からきちんと起きているみたいな風で、偉そうにプロンプトを見下ろしていた。


「昼飯食ったら、畑の手伝いだぞ。今のうちに、酒を抜いておけ」

「え?!え?!そんな、急に酒抜けって言われても?!」


プロンプトは、まだ酒臭い息を吐きながら、慌てふためいた。

恥ずかしそうにプロンプトも起きてきて、昼餉の食卓に着いた。アラネアも今日も変わりなく、ここのうちの子どものような顔をしてクブニの隣に座っている。

ノクトは偉そうに飯を食いながら、

「おう、今日、昼飯終わったら、オレら、畑を手伝うわ」

と言った。

家の者たちはちょっと驚いた顔をしたが、

「そうかい、そりゃぁ、助かるよな?」

と、主人のシシヤが言ったので、話はまとまった。

昼の片づけを済ましてから、おそらく、畑仕事の休憩用だろう。ちょっとの握り飯と竹筒の水筒を用意して、一行は畑に向かう。プロンプトは、昼ごはんを食べて少しは酒が抜けたと見える。若干顔色は悪いが、足取りはしっかりしていた。

いやあ、助かるわぁ と、ギンガは何度も感謝の言葉を述べながら、よほど働かせるつもりらしい。その、したたかな目が光っていた。一家の畑は、歩いて10分程度の、谷底の一画にあり、その仕事の大半は草むしりだ。半分は田んぼ、半分は大根だのにんじんだの、菜っ葉だのの畑になっていた。あと、一画は、他のものも仕事に来ていてところから推測するに共同のものらしい…果樹園だ。

ノクトたちは、案の定、ひたすら単純作業、そして労力だけを食う草むしりを言い渡された。ノクトは田んぼに分け入り、足首が泥に埋まりながら草を抜いた。プロンプトは畑の方で生い茂る草を抜いている。家のものは、方々、育ち具合を確認しながら、肥料をやったり、果樹の世話をしたりしている。

これで一日がくれるんだな…ノクトは、ひざと腰に早くも痛みを覚えながら、ようやく傾き始めた太陽を目で追っていた。

こりゃ、今夜は良く眠れるわ…

汗と一緒に、昨日のアルコールもすっかり浄化された気がする。

一度の休憩は、かなりゆったりと時間を取った。お握り一個をかじり、水筒の水を飲みながら、田畑の脇でおしゃべりをする。隣の畑のものが、漬物を持って現れたりする。

あー、あんたら、昨日見たわ!よう働くのぉ、客人!

何を見てもとりあえず大笑いしてみせる村人は、誰も彼も幸せそうに見えた。

日の光が、赤くなってきたな、と思ったら、今日の仕事は終わりだ。

おう、もう、ここでおわりじゃ。 と主人が言えば、それで終わりになる。きりがいいところまで、と、プロンプトが続けようとしたら、ギンガが笑った。きりなんてあるもんかね。明日また、お天道様が昇れば、草も伸びるて。明日のことは明日やればええ。

それで、ノクトもプロンプトも潔く作業を切り上げて、みなと一緒に家路に着いた。全身はすっかり泥だらけになっていた。

家に着くと、ばあ様とクブニとアラネアとで、薪をくべて風呂を沸かしていた。

おおお!五右衛門風呂?!

と、プロンプトは感動して見せた。家の者たちが、プロンプトとノクトに、先に入るよう、進めてくれた。風呂は、実際には鉄釜の五右衛門風呂ではなく、木製の湯船で、ゆるり男二人なら入れたので、後の人のこともあって、ノクトとプロンプトは一緒に風呂に入ることになった。

「マジ、ノクトと風呂入るとは思わなかったわぁ」

先に体を洗い終えて湯船に使ったプロンプトは、感慨深く言う。

「確かにな。ルシスには、こういう大風呂もなかったしな」

ノクトは足のつめに入り込んだ土を洗い落とすのに苦労していた。背中から、プロンプトの視線を感じて振り向くと、プロンプトは興味津々と、ノクトのほうを眺めていた。

「なんだよ?!」

ノクトは気味悪そうに言う。

「あ、ごめん!背中の傷、つい、見とれちゃって…」

と言って、プロンプトは窓から外の方を見る。

そうか、背中にもあるんだな…と、思って、ノクトは、背中を撫でた。確かに、胸の傷のちょうど裏側に、同じような傷があった。

「ルシスを出て…どのくらいたったっけ?」

ノクトはなんとく聞いてみた。

「ううんと…2ヶ月くらい?なんか、もっと昔みたいな感じがするねぇ…」

「そうだな…」

ノクトは体を洗い終えて、ようやく湯船に入った。

「で、どうするの、ノクト?」

ノクトは考えるようにしばし黙った。

「…村の、寄り合いの先にな、御山というのがあるんだ。神主が住んでいる社があるらしい」

「うん」

「今夜、みんな寝静まったあとに、一人で行ってくる」

え? とプロンプトは驚いて、ノクトの顔を見た。

「一人で行くの?」

「そうだ…神主は、人を寄せ付けないようにしているらしいからな…まずは、オレ一人で近づいて、それで話をしてみる」

ノクトは、オヨケ爺から聞いた、許可なく入れば死ぬ、という話を、伏せておいた。昨日見た感じでは、神主の社まではたかだか1,2時間程度の道程…魔法がなければ何も心配することはないが…もし、何か仕掛けてくるなら、受けて立つのはオレひとりで十分だろう。

「昨日、入り口までは確認したんだ。だから、心配ない」

ノクトは付け加えた。

「…うん、わかった。でも、気をつけてよね」

「わーてるよ。しかし、相手は魔導兵ってわけじゃねぇんだし。数日留守にするかもしれないが…適当につくろっておいてくれ」

「わかった」

プロンプトは、納得したようだった。

「それとさぁ…」

と、プロンプトは、罰が悪そうに続ける…

「ごめん、昨日…オレ、なんか失言あった?!」

自信なさげに言うので、ノクトは、ちょっと黙ったが、しかし、すぐに笑い返して

「別にないだろ。無礼講だったしな」

と言っておいた。

そうか、よかったぁあああ 

プロンプトが安心して叫ぶ。

記憶があいまいらしいな

ノクトは苦笑して、幼馴染を許してやった。

順番に風呂に入って、順番に台所に立つ。みんながさっぱりしたころには、ちょうど食事ができあがる。アラネアも、いつの間にか、クブニとギンガと一緒に風呂に入っていて、ほかほかに頬を赤くしていた。

そういえば…この集落の子は、みな、自然な頬の色をしているな、とノクトは気がついた。アラネアがこの数ヶ月ですっかり健康的になったといっても、村の子と並ぶとその色の白さと血管の浮きたちぐらいが明らかだった。しかし、この集落の子どもたちはそういった違いをほとんど気に留めていない。

なんでも外のものを受け入れてしまうのは、計算でもなんでもなく、それがこの村なんだろう。ノクトは思う。

夕餉に、いつものとおり、と言った調子で、シシヤが酒のとっくりを持ち出したが、さすがにノクトもプロンプトも、辞退した。シシヤも、ギンガも、ばあ様さえも、二人の客人は遠慮しているのかしらと訝しがって、それぞれに、大きな湯飲みに酒をついで、普段どおりといった顔で、酒を飲んでいた。

もう、酒がなくても、すぐに眠れる…

正直なところ、ノクトもプロンプトも、夕飯の途中から眠気にふらふらになっていた。大人たちがいい気分になっているところを、なんとか抜け出して、自分たちの部屋におさまった。アラネアは、昨日もそうだったのか、最後まで家のものに付き合うらしい…

だいたい、あいつ、昨日どこに寝ていたんだ?布団は同じ部屋にはなかったよな?

もしかすると、家族と同じ部屋で休んでいたのかもしれない。

しかし、深夜に抜け出すのには好都合だった。

「プロンプト、時計のアラームを貸してくれ。1時に設定してもらえるか?」

「わかった」

プロンプトが時計をセットしている間、ノクトは、手早くバックパックを確認する。まだ、3日分の物資が詰まったままだ…2時間の行程…慎重すぎるだろうか。

いや、と思い直して、そのままにする。

あっちが本気なら、こっちも本気だ。今度は、根気比べになるだろう…

ノクトは、昼間の農作業で、気持ちよく眠りにつきながら、ほどよくアラームで目が覚めますように、と祈った。

ピピピピピ…

遠慮がちに電子音がなっている。

なんだ?プロンプトの時計か?

と、ノクトは思う。迷惑なやつだな。

それから、なんだか懐かしい匂いをかぐ。

花の匂い…? どこで、嗅いだんだっけ、この匂いを…。

ノクトは記憶を手繰る。頻繁にはない、ただ、一度きりの記憶なのに、強烈に残っている…

青く咲き乱れる花々が、目の前を通り過ぎる。

ルーナ!!!

ノクトは、はっと、目を開く。暗闇の中、かろうじて、天井に裸電球が下がっているのが見えた。

ノクトは枕もとに置いた腕時計を見た。すでにアラームは止まっていた。隣の布団で眠っているプロンプトは、音には気づいていないようだ。すやすやと、穏やかな寝息を立てている。

よし…なんとか、起きれたな…

ノクトは、ゆっくりと体を起こした。広間に続く襖を開けると、雨戸の隙間から月の光が差し込んでいるのが見えた。ノクトは静かにバックパックを背負って、縁側に降り立った。昨日の夜、そこへ用意していた自分の靴を履く。しずかに雨戸を閉める。家の中に、うごく気配はない。家の者たちは、みんな眠っているようだ…

ノクトは、プロンプトから借り受けた時計を、腕にはめていた。その方角と時間を確認する。いま、頼りにするものは、これだけだろう。

意を決して、クブニの家を後にする。まずは村の中心を通る道まで下りる…そこから、寄り合いを通り過ぎて、その先が、御山のはずだ。

特別なことがなければ、村の夜は早いのだろう…辺りは静まっていて、起きている者の気配はない。昨日の寄り合いの大きな建物も、雨戸を締め切り、ひっそりとして誰もいる気配がなかった。

光る標は今日も、転々と灯っている。その道は月のほうへ続いているように見る。昨日のように、ただ、月を追いかけるように進もう。方角や、視覚の情報は、正しくない。すべてが、魔法で誤魔化されている。

ノクトの中には、ルーナが御山にいるという確信は揺るがなかった。今はもう、そこで、ノクトの現れるのを待っているルーナの姿が見える気さえした。歳を重ねてはいるが、かわらず、美しいその微笑をノクトに向ける。

もうすぐだ…ルーナ

執念のようなものが、ノクトを突き動かす。最後の関門は、神主の魔力なのだろう。それを退けなければ、ルーナを迎えるものとしてふさわしくないというのなら…受けて立とう。

10年前に守りきれなかった貴女を、今度は絶対に…

ノクトは目が痛いほどに月を見つめていた。足元も見ずに、月に誘われる様に進む。あまりに強く見つめたたために、目が霞んで、思わず瞬きした…いや、目が霞んだのではない。実際に、月にもやが掛かったのだ…

はっとして、左手の山を見上げる。昨夜目にしたのと同じ、白く霧のかかる黒い影…そこへ転々と光る灯篭の火。その行き着くところに、ぼうっと白く浮き立つ、白い建物。

御山…

ノクトは、昨日の記憶を頼りに、山に足を踏み入れた。すぐに、参道の入り口たる、石段が見えてきた。両脇の白い石が、ぼおっと灯り、石段を照らす…

このまま、まっすぐ足を踏み込めば…昨日と同じことか。

ノクトは、階段をふまず、その脇を行くことにした。左に光る石をみながら、道なき山の斜面を登る…かなりの急坂だ。階段でさえ、かなりの勾配で骨が折れるように見えた。ノクトは、両手で木の枝や根にしがみ付きながら、上っていった。

しばらく、何事も起きずに、光りに手荒された階段の脇を、順調に這い登った。

この調子で階段に沿っていければ、1、2時間で社だ…

振り返ると、黒々とした木の陰の隙間から、熟れたような月の光が見えた。ノクトの背中を押すように、付きの光が、黒い斜面に差し込んでいた。

ルーナの導きか…

ノクトは確信を強めて、先を進む。

1時間ほど這い登っただろうか…階段の向きが変わって、その先は、少し平たくなっているようだ。目指す社までは、半分くらいか…ノクトは頭上を見上げて、黒い影に点々と続く光の道を見ている。

とりあえず、あそこまで上がって休憩かな…

かなりの急勾配を這い上がってきたので、腕はしびれ、喉が渇いているのを感じた。

ノクトは、一気に勢いをつけて這い登った。のぼりきる手前に突き出した木の枝をつかみ、ぐっと体を持ち上げて、その先にひろがる平らな場所に足をかける。思ったとおり、数m四方の開けた空間があり、石畳が、階段と階段をつないでいた。すぐ先に、次の登りの階段が見える。

よし…とりあえず、真ん中くらいまでは進めたようだ。

不思議なことに、この辺りはそこまで霧がでていなかった。下から見上げたときは、すぐにきりに包まれるような気がしたが…

ノクトは休憩しようと石畳の上に一歩、踏み出した…その時ー

ぶあああああ という、昨夜感じたのと同じ圧力を感じた。

しまった…!!

ノクトは、まるで自分にも魔力が残っているかのように、気力を奮い起こしてその圧力に抵抗しようとした。思わず閉じた目を、ゆっくりと開ける…周囲は、深い霧だった。1m先も見えない…。しかし、しゃがんでみると地面に触れる。まだ、森の中だ。御山から追い出されてはいない。

方角を見失ったな…

しかし、階段はすぐそこだったはずだ。ノクトは辺りを見渡す。濃いミルクのような白い霧以外、視界に入るものがない… 見上げても、すぐそばに続いてた光の道は、見えなかった。

落ち着け…まだ、ここからだ。

ノクトはぐっと、腹に力をこめる。無意識に、胸の傷のあたりに拳をあてていた。

オレの力は…ここからくるんだ。一度失った命。

ノクトは、挑戦を受けるように地から強い眼差しで辺りの様子を伺った。

とにかく、上るぞ… ここからは、常識は通用しない。あっちの魔力が上が、オレの執念が上か、だ。

ノクトは、すり足で少しずつ前に進む。斜面に突き当たって、そこで一度足を止めて、休憩を取る。荷物を降ろして、水を飲む。時計を見ると、夜明けまではまだ数時間ある。しかし…この場所で夜が明けるかは、疑わしい。

ノクトは、軽く乾パンをつまむ。ゆっくり、慎重に進むつもりでいた。そのために、3日分の食料を積み込んできたんだ… 何か腹に入れると、力が沸き立つようだった。

よし。

再び立ちあがる。背にしていた斜面にしがみ付いて、一歩一歩上を目指す。

そして、時々耳を澄ます。目を凝らす。肌の感覚を開く…なにかしらの合図があるはずだ。そこに、ルーナがいるなら。

ノクトは直感に従って、次に手を伸ばすところを決めた。足をかける場所を。霧は、月の明かりに照らされてか、不思議にぼおおっと光っているように見えた。しかし、その濃い白の向こう側は見渡せない…ノクトが一歩進むごとに、黒い木の陰や、盛り上がった土が現れる。

進めるぞ…!!

ノクトは挑戦するように、心のうちでつぶやく。

やつは…見ているはずだ。オレがここにいて、前へ進もうとしているのを。

ノクトはさらに挑戦的に、先へと進む。

時計は、ノクトが上り始めて5時間が経過したことを示していた。思ったとおり、日の出は確認できない。ノクトは、目の前に現れた窪みに腰を下ろした。

眠って、目が覚めたらまた民家の天井を仰いでいるんじゃないだろうな…

しばし警戒したが、結局、時計のアラームをセットして2時間の仮眠をとることにした。

オレは、ここは動かないぞ…

ノクトは、神主に向けて念を送りながら目を閉じる。

ぴぴぴぴぴぴ…

ノクトは、はっとして目を開ける。あっという間に寝入ったらしい… しかし、目を覚ましたそこが、まだ霧に覆われているとわかって、ほっとした。

あいつの魔力も完全ではない…オレは、先へ進めるぞ

ノクトに自信がみなぎっていた。

眠るまえより若干、明るくなった気がする。相変わらず、霧で視界は塞がれているが、しかし、日が昇ったのはかろうじて感じられた。

アラネアのおかげとはいえ、この集落までたどり着けた。魔力は完全ではない。何もかもを妨げるほどの力はない。

ノクトは立ち上がって、辺りを見渡した。


「オレは、前へ進むぞ!邪魔しても無駄だ!!」


ノクトは大きな声を張り上げた。声は、霧の中にこだましていた。

ノクトは力を回復して、また、次の一歩を進める。

這い登っても這い登っても、霧の中だ。随分の高さを上ったように思える…しかし、これも魔法で感覚が狂わされているなら、それほど進んでいないのかもしれない。

さきほど通ったのも、同じような窪みではなかったか? 今つかんだ枝は、さっきつかんだものと同じじゃないか…? ノクトの中にうんざりするような気持ちが沸き起こる。

まだ、霧が晴れない…くそ、本気で根気くらべをするもりだな…

ノクトは、時計を見た。時計が狂わされていなければ、登りはじめて10時間がたつ…ちょうど、外は昼ごろか。ノクトは、太陽のわずかな輪郭でも見えやしないかと、図表を見上げた。しかし、濃い霧に阻まれて、太陽は見えなかった。木陰さえも。

3日ある…それで、たどり着けなければオレの負けか…

いや、と、悪い想像を打ち消すように首を振る。その場の斜面に体を横たえて、しばし深呼吸する。景色に変化が見られないのは、思った以上に精神的なダメージがでかいな、と冷静に考えた。ただ、道に迷うのとは違う。まるで狭い空間に閉じ込められているような、閉塞感もある。

落ち着け…これは持久戦だ。しかも、物理的な法則は無視されている。オレは…見えているもの意外で勝負しなければいけない。

とにかく、この鬱屈した気分を変えるには…そうだ。と、思い立って、ノクトは長いこと電源を切ったままのスマホを取り出した。ひさしぶりに立ち上げる。この中に、気に入った音楽が入っていたんだっけ。電池の残りは、数時間といったところだろうが、気分を変えるのは十分だろう。ノクトはイヤホンをつけて、ノリのいい音源を選んで再生する。

ずだだん、ずだだん…

やたら攻撃的なリズムを刻む。ボーカルが吼えるように歌う。

これ、テスト前にテンションあげ用につかってたやつだわ…

ノクトは、ふふ、と笑いをこぼし、それから軽く体を揺らしながら、バックパックを背負いなおした。ちょいとばかし、これで進むか。

どうせ、誰も見てないし、と思って、軽く口ずさむ。

ー道をふさぐもののは、シネ!シネ!シネ!

過激なフレーズが、今のノクトには心地よい。

にやけ顔で、ノリノリにリズムを刻む。ひとつ這い登るごとにテンションが上がる。

ーこんなぁ、ちっぽけなぁ壁ひとつ、砕くにも物たりねぇ!!BON!

ー上等!意地以外に、オレにはなんにもねぇ!!BON!

ノクトは、目の前に現れた太い枝を右手つかむ。そして、粗いリズムにのって、その枝を強く引き付けた。

ぼきっ と大げさな音を立てて枝が割れた。ノクトはかろうじて左手で岩にしがみついた…枝は背後の霧にはじかれるように飛んでいた…と同時に、何かの圧力を感じた。

くそ!!そうはいくか!!!

ノクトは左手に渾身の力をこめてしがみついた。強風、というか、何かの圧力というか…不思議な力はノクトの体を押さえ込み、そして、剥ぎ取るように、背負っていたバックパックを奪った。

なに?!

しっかりと腕に通したはずのバックパックは、なぜかその紐が音もなくちぎれて、圧力に乗って、遥か下に流されていった。その時、霧がかすかに切れて、ノクトの真下に、絶壁が口をあけているのが見えた。

マジで、殺るつもりかよ…!!!

ノクトは軽くなった右手を左手と同じ岩場に引き寄せて、両手でなんとかこの圧力をしのいだ。

そっちがその気なら… 

ノクトの中の執念が、わずかな岩のでっぱりを握る両手に篭る。

…どのくらいの時間、死闘しただろうか。気がついたときには、ノクトの息はすっかり上がっていて、しかし、足元に地面を感じていた。もとの、緩やかな山の斜面に、四つんばいにしがみ付いていた。

しかし、今のがあながち幻でなかったことは、失ったバックパックからも分かった。そしてポケットに忍ばせていたスマホも、プロンプトに借りてきた腕時計までもがなくなっていた。

何もかも、頼るものを失ったわけか…

ノクトは左手首を眺めながら思う。水もない、食料もない…あるのは、己の肉体のみ。

あっちは焦りだしたって証拠だ。近づいたに違いない…

ノクトの気持ちは折れるどころか、むしろ燃え立っていた。水がないなら…さがせばいい。ここは森の中だぞ。

ノクトの神経は研ぎ澄まされて、まるで、アラネアのように野生に帰ったような気がしていた。ノクトは鼻を利かせて、水の匂いを嗅ぎとうろとした。水の匂い…わずかに感じる。そして、匂いに誘われるまま、また、山を這い登る。数十分登ったころだろうか…ノクトの手足が、ぬかるみにはまる。

水だ!!!

ノクトはぬかるんだ先を進んで、湧き出る泉を探し当てた。そして、その泉に疑いもなく顔を突っ込んで、直に水を飲んだ。泉の水は、これまで飲んだどの水よりも雑味がなく、清らかな味がした。

ノクトは、汚れるのもかまわず、泉の脇、ぬかるんだ地面の上に仰向けになる。

もう、時間がどれだけたったのかもわからない…水だけあればしばらく生きられると思うが。しかし、ノクトは酷い疲労を感じて、しばらく体を横たえていた。

あれから何時間たったんだ?それとも何日だ…?

時間の感覚もすっかり狂っている。忘却の地にたどり着いたのも、はるか何年も昔のことのような気がしてくる…なかなか、平和なよい集落だったよな…そのまま、住み着いても、幸せになれたかもしれない。

ダメだ…足りないんだ、オレには…

ノクトは、再び体を起こす。右も左も、下りも登りも、確かでなかった。どっちへ行くべきか…しかし、まだ、進める。

ノクトは、まるで4つ足の獣のように這いつくばって、辺りに目を凝らした…何かの、気配をわずかに感じた。

赤い…光?

わずかに、何かが、赤く光った。ちらっと、一瞬だが。

光が見えたと思う方向に、ノクトは、四つん這いのまま、歩き出す。ことばがない…ノクトの中に、今、あるのは、野生から持ちえた5感のみ…

また、何かが赤く光った。濃い、深い赤色の光だ…

ノクトは、獲物に狙いを定めるように、その光を追う。

誘っているな…すぐに、追いつく…

ノクトの目が、いつのまにか赤く光っているのを、本人は気がついていなかった。しかし、なぜかすべての感覚器がいつもより鋭くなっていくのを感じていた。

赤い光…

また、遠くで光る。ほんの一瞬だ。逃すまいと、また、目を凝らす。

また、光った。

どこか懐かしい、光だ。強くはない…だが、確かに光っている。

ノクトは、獣のように這いながら、先を進む。両手の指のつめは、土がつまり真っ黒になっていた。ズボンのひざは、泥にまみれて、すっかり擦れている。しかし、ノクトはまるで気がつかない。人間であることを忘れたみたいに…赤い光だけを追っている。

ふと、赤い光が、点滅した。その距離が、だいぶ近づいたように見える。そして…その赤い光の背後に、小さな獣の影が見える…

ノクトは、我に返った。人間であることを思い出したように、ゆっくりと立ち上がり、その陰を見る…少しずつ近づいて、その輪郭がはっきりする。耳の長い…白い獣。

「カーバンクル!!」

ノクトは声を上げた。その時、その小さな獣は向こうを向いて、走り出した。ノクトは、視界の悪い恐怖も忘れて、その背中を追って走り始めた。

白い霧を裂くように、走る。次々と、白い霧から木が現れて、ノクトの隣を掠めて通り過ぎる。ノクトは怯まずに突き進んだ。下手をすれば踏み外すか、何かに激突するだろうが…しかし、小さな獣の背中を見失いたくない。

小さな獣は、突如、振り返ってその額の赤い石を光らせた。ノクトを導いているのだろうか… そして、また、背中を向けて走り去ろうとする。

「待ってくれ!!」

ノクトは、その背中に叫ぶ。

ノクトは距離を縮めようと、一気に駆け出した。途中で、足を木の根に取られそうになったが、なんとか体勢を保った。

あと少し…と、その影に手を伸ばした瞬間、小さな獣は、霞と消えてしまった。

…あ

ノクトは、つい先ほどまで小さな獣がいたあたりに、力なくひざを突く。

何を伝えようとしたんだ…

そして、顔を上げて前を向いた。

建物の影が視界に飛び込んできて、息を呑む。

あれは…

ノクトは立ち上がった。そして、ゆっくりとその、建物の方へ進む。白い霧の向こうから、ゆっくりと、古い遺跡のような建物が見えてきた。高い窓から、わずかな光が漏れている…

ノクトは建物の周囲をゆっくりと回る。そして、建物の正面と見られる場所に出た。古代の神殿のような立派な柱が立ち並び、その中央に、重い石の扉が、半分開いていた。

ノクトは迷わずにその扉へと進んだ。

0コメント

  • 1000 / 1000